yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『明治一代女』in たつみ演劇BOX@弁天座2012年10月27日夜の部

去年プラハの国際学会でこの作品で発表をしたこともあり、是非とも観たいと思っていました。座長お二人のお姉様、小龍さんの一日座長での誕生日公演ということで、彼女が原作を補綴、演出した舞台でした。川口松太郎の原作を基に劇団に合うように改作してありました。私は川口の原作にかなり忠実だったと思われる新派版を観ていないのですが、南條劇団の舞台や伊藤大輔の映画版と比べると、ずっと川口原作に近かったようです。

主役のお梅はもちろん小龍さん。澤村仙枝(ダイヤさん)からの三味線のプレゼントがお梅に届く場面から始まったのですが、原作では意味のあるそのいきさつが今日の舞台ではうまく機能していませんでした。お茶屋の座敷での秀吉との痴話争いから逃れ出た仙枝がお梅のいた部屋に入り込み、彼女の三味線を踏んづけて壊してしまうという原作の冒頭部分が省略されているためです。舞台では時間的な制約があるでしょうから「三味線」云々はなくてもよかったのでは。小龍さんの着付けを巳之吉(ダイヤさん)が手伝う場面を挿入したのは、二人の主従関係を超えた近しさを出すのに有効でした。芸者の着付けなんてみることがないので、とても「参考」になりました。お母さまの龍子さんの演技も光っていました。

その後の宴席場面はいくつか映画版を超えている箇所がありました。一つは、当時の柳橋贔屓客の一人だった東京日々新聞主幹、福地桜痴(宝さん)を場面に加えたこと。後にお梅事件を大々的に報道したのが東京日々新聞だった事実を踏まえた川口原作に忠実だったのです。その宴席で、お梅に仙枝をとられたと邪推した芸者の秀吉(たつみさん)がお梅の三味線にあわせて踊り、そのあとで嫌みをいうという設定は原作と映画版との混合体でした。ここに仙枝(ダイヤさんの二役)がやってきて、お梅の三味線に合わせて踊るというのは、映画版の踏襲。この場面、芸者の意気地をかけた二人の人気芸者の張り合いになるというちょっとシリアスな場面なのですが、芸者姿のたつみさんがそれを覆し(?)ました。彼が登場する前から(その声で)「たつみさん」と分った客席に笑いが広がりました。その上、「いじわる芸者」のたつみさんが芸者姿の花さんやら(慣れない背広姿の)瞳太郎さんをからかったりいじめたりするので、悲劇が喜劇の様相を呈してきました。「私があんまりこの場にいるとお笑いになってしまう」といって、たつみさんは引っ込むのですが、その際にも小龍さんを芸者らしからぬ(男性丸だしの)乱暴さで蹴りあげ、さらに部屋奥の実際にはない階段を「降りる」ふりまでして、観客サービスをしたものですから、笑いのさざ波が一層広がりました!どこにいても脚光を浴びざるを得ない(?)のがたつみさんなのでしょう。でも楽しかった。

みんなが去ったあと、お梅と仙枝が初めて結ばれるのですが、このときの仙枝の「お前が好きだ。秀吉とは切れる」という口説きに対してお梅が「私をお梅と呼んで下さい」と応える場面はちょっと唐突な感じがしました。もっと心理的葛藤をみせたほうが納得できます。だからこの台詞はなくてもよかったのでは。お梅は意気地できこえた柳橋芸者の中でも売れっ子だったわけですから、こんなに簡単に落ちてしまうというのは、ちょっと腑に落ちません。ここだけではなく全体的に(舞台の省略を埋めるための?)説明調の台詞が多すぎる観がありました。

仙枝の仙之助襲名披露の費用千円を故郷の田畑を売り払って巳之吉が工面、その金を受け取ったお梅が巳之吉を避けるようになっている。原作でも映画でもその理由が仙枝がお梅に将来を約束するからなのですが、今日の脚本ではそうなっていなかった。やはり「仙枝のことばがどこか中途半端状態のお梅の気持ちを変えた」という筋書にした方が、説得力があるのではないでしょうか。

最後の場面は南條劇団のものも映画版も劇場に忍び込んだお梅がこっそりと仙之助襲名披露を観るという設定になっていました。南條版はここの工夫が「劇中劇」を使って特にすばらしかった。小龍版ではお梅は実際の舞台に立ち会うことが叶わなかった。芝居小屋の前で警察に捕まったお梅は駆けつけた母と弟にとりすがられながら自害するのです。その息も絶え絶えのお梅に向かって、劇場から袴姿で飛び出してきた新仙之助が「襲名披露」をやってみせるという設定でした。舞台上にはそれ以外にも巳之吉の雇い主(愛さん)や巳之吉の同僚などが群がっています。こんなに大人数が舞台でならぶとお梅と仙枝にあたるハイライトが生きてこないと思います。悲劇のカタルシスがなくなります。せっかくの感動的な「襲名披露口上」の焦点がぼやけて、残念でした。この場面がクライマックスですので、もう一工夫されたらはるかに良くなると思います。

とはいうものの、劇団としてのキャパ(とくに限られた座員という)の中で新派と比べても見劣りがしないだけの芝居の構成、演出ができるというのはすごいと感心します。やはりこの劇団の強みはたつみさん、ダイヤさん、小龍さんという群を抜いた芸達者がそろっているところです。小龍さんは今日は少し力が入りすぎていました。普段はもっと自然体の方なので、やはり初めての座長公演ということで力みがあったのでしょうか。たつみさんは常に自由闊達。その間の取り方、緩急自在でほれぼれします。おかしみがあるのですが、けっして下品にならないその格式の高さ。ご本人の人品に由るのでしょうか。ダイヤさんも「間の取り方の秀逸」という点ではお兄さまに並んでいます。

福地桜痴役の宝さんもステキでした。当時の教養人はかくあったかというのをよく出していました。

舞踊は小龍さんと瞳太郎さんの相舞踊、小龍さんとたつみさんの相舞踊がすばらしかった。センシュアルでいて格式高いという矛盾した要素を見事に表現。

主役の小龍座長、彼女の個人舞踊は芝居に合わせて江戸前の曲を使っていました。とても粋でそしてお綺麗でした。お誕生日ということで挨拶をされたのですが、まだお小さいお嬢様二人から花束をもらわれた折には涙ぐんでおられました。男性優位の大衆演劇の中で女性として頑張っておられる様子は感動的でした。

もちろん座長二人の個人舞踊もぞくぞくするほど魅力的でした。