yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

映像になった『鬼平犯科帳』

テレビドラマ版「鬼平シリーズ1」の第12話まで見了った。原作を超えるものがないのが残念だが、それはある意味無い物ねだりだろう。池波正太郎の文の底知れない力にあらためて感じ入っている。

文庫本の何巻だったかの後書きに中島梓が池波の文章力を賞賛していたけれど、同感である。彼女は三島由起夫の『文章読本』での「森鴎外泉鏡花との比較文章論」を引き合いに出していた。森鴎外泉鏡花ともに自身が手本にしたと三島が言明している優れた文章の作家たちだが、両極端の文体をもつ。中島梓がいうには、池波は森鴎外型であるそうな。ぎりぎりまでに削ぎ落とされた形容詞等の贅肉。短い、テンポの早い文章。それでいて「余白」が文章そのものの空間/時間にたっぷりと取ってある。その余白はもちろん読者のためのものである。その余白に読者の想像力がかき立てられ、イメージが膨らむのだ。それはたしかに森鴎外を思わせる。三島はもちろん鏡花タイプ。でも鴎外の影響も受けている。

池波の簡潔でいて力強い、余白に満ちた文章で具現化される長谷川平蔵、それと平蔵が解決する数々の事件。そこに現出するのはまさに一つの宇宙。読者が何の抵抗もなく「住まう」ことのできる空間/場。それとあまりにも「リアル」なテレビドラマ、その映像と、池波の原作を比較するのはフェアでないかもしれない。はじめから勝負はついているから。これが舞台だったら、話は変ってくるかもしれないけれど。現に池波は「鬼平」を自身の演出/監督で舞台化している。平蔵を演じたのは七世松本幸四郎鬼平のモデルが幸四郎だったそうで、池波はそのできばえに満足だったようである。その舞台では幸四郎の希望により、現幸四郎と弟の吉右衛門も共演した。

吉右衛門がテレビで平蔵を演じるのには、池波もかなり期待していたようである。でもそれを見届けることなく、急逝してしまった。みていれば、きっと満足したに違いない。吉右衛門の平蔵はまさにはまり役だから。それにお父様の七世幸四郎に兄の現幸四郎よりもずっと似ているから。

吉右衛門の平蔵がとても魅力的である。ただ脚本が時間の制限やら(おそらく)お茶の間の視聴者という枠を意識せざるをえなかったために、かなり(暴力的に)原作を単純化、そのためどうしても内容が凡庸になっているのが否めない。原作がもっている空気感が移植できていない。吉右衛門の平蔵とそれを固める脇の役者たちが「当代一流といって演技」をみせるので、救われている。涎の出そうな演技力のある、そして心身ともに充実した役者を使っているのに感心する。もうこういうシリーズは二度と作れないんでしょうね。

私が一番すきなのは、第9話の「兇族」である。平蔵を心が通じあう盗賊を演じたのが米倉斉加年さんだが、この人はすばらしかった!終わるころには泣いてしまった。主人公の平蔵も同じだった(?)とみえて、この盗賊におめこぼしをするのである。吉右衛門と米倉との掛け合いはなんともユーモラスだった。でもそこにちょっとペーソスが混じるんですよね。ここのところ、この名優お二人、まさに絶品!