yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

佐藤隆介著『池波正太郎の食卓』新潮社2001年刊

池波正太郎のことは『鬼平犯科帳』の作者として知ってはいたが、読んだことはなかった。剣客小説は『眠狂四郎』と『宮本武蔵』を高校生の頃に、山本周五郎のいくつかの短編を留学中に読んだきりである。だから池波正太郎が人気があるときいても、自分で読もうとは思わなかった。

先日NHKのe-テレで池波の文章が使われていた。それも小説ではなくエッセイの方である。彼が愛した浅草「万惣」のホットケーキについての一節だった。ネット検索をかけて、今年の2月にその「万惣」が閉店したことを知った。池波にとって父と食べたホットケーキは記憶の中で大きな位置を占めていたようである。朗読された彼の文章の簡潔さと美しさに、そしてそこから滲み出る情緒に打たれた。

さっそくアマゾンで彼の食べ物についてのエッセイを2冊注文したが、近場の図書館へ出向いて、この本とあと池波正太郎著の『そうざい料理帖』、それにもちろん『鬼平犯科帳』シリーズを4冊借り出した。ものすごい人気で、図書館所蔵本の内の何冊かは貸し出し中だった。おそらくこれが常態なのだろう。

Wikiでみて驚いたのが、池波正太郎の著書数の多さだった。小説もさることながら、随筆も多い。その随筆の多くが「食」と「映画」関係のものだったのにも驚いた。美食家として夙に有名だったようである。映画は様々なジャンル、国のものをみていたようで、映画通としても有名だったようである。淀川長治さんとの対談でなんと1年に150本ほどみるのだと言明している。あれだけの数の著作をものにしながら、夥しい数の映画もみていたなんて!

もっと驚いたのは、彼が芝居の人だったことである。小学校を出て、株屋に丁稚奉公をしていた期間に、なんと相場でもうけた軍資金で、歌舞伎を見まくったようである。そして(またもや)なんとなんと(!)あの長谷川伸に弟子入り、その縁で新国劇の座付き作者にもなっている。長谷川伸が亡くなるまで、彼はその弟子であり続けた。また長谷川伸の勧めで小説を書き始めたという。実際は小説家としてではなく、劇作家としてスタートをきっていたわけである。

『鬼平犯科帳』の主演が吉右衛門だったのも当然といえば当然か。先日歌舞伎狂いの朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』の解説書を読んだところなので、昨今芝居に惑溺する人物に次から次へと出くわすことに、なにかただならぬご縁を感じてしまう。

そして、池波の「食通」ぶりの本題である。池波の通ぶりはとにかく圧巻である。特に江戸前のたべもの、それももう今では「語りぐさ」となっているようなたべもものの数々、読んでいるだけでよだれが出てしまう。この本の著者、佐藤隆介が池波の随筆中に、あるいは小説中に言及されている料理、たべものを追尾する(追憶する)という体裁をとっている。「池波正太郎の食卓」の再現をしているのだ。

件のホットケーキだが、この本の110頁に出てくる。その部分を抜き出す。

 写真担当の田村邦男がいった。「池波先生の場合は、ホットケーキといえばやっぱり万惣ですよね。須田町へ行って(註、この本の出版が2001年、まだ万惣は須田町に健在だった)、いつも先生が座っていた席にホットケーキを置いてもらって、写真を撮ろうかな。うん、これしかないな」
 たいていの場合、こんなふうにして「池波正太郎の食卓」をどう再現するかが決まっていくのである。田の字が「万惣しかない」と断言した理由は「むかしの味」の一章に明らかだ。そこにこうある。

―—そのころはむかしからなじんだチャンバラ映画のみではなく、洋画のおもしろさをおぼえて、まだ観ていなかった古い洋画を、諸方の小さな映画館をまわって、それこそ毎夜のごとく観た。(中略)
 店を出て須田町でバスを降り、まず「万惣」へ入り、ホットケーキを食べ、腹ごしらえをしてから「シネマ・パレス」へ駆け込むというのが、一週間に一度、かならず決まっていた。——

 神田・昌平橋にあったシネマ・パレスに通い詰めてガルボやディトリッヒや若き日のゲイリー・クーパーやジーン・アーサーに夢中になっていた池波正太郎は、当時十三歳。
 この齢ならホットケーキがうまいというのもわかる。しかし、池波正太郎は晩年に至ってもホットケーキ好きが変らなかった。私が通いの書生を務めていた頃は、旅先のホテルでよく朝飯にホットケーキを食べていた。カリカリに焼いたベーコンと一緒にである。

別れて住んでいた父に呼び出され一緒に食べたホットケーキ(当時正太郎は八歳だった)、それはもちろん上にバターの乗った、シロップをかけて食べるものだったのだが、それが大人になってからは西洋風にベーコンといっしょに食べるホテルの朝食へと変貌している。でも終生正太郎のホットケーキ好きが変らなかったのは、そこに幼い頃別れ、その後一緒に住むことのなかった父への恋慕の思いがあったからに違いない。そう思うと、かなり感傷的になる。