yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『瞼の母』in 「九月大歌舞伎、六代目中村勘九郎襲名披露」@大阪松竹座9月3日

大衆演劇ではおなじみの演目。それまで「長谷川伸なんてお涙頂戴の権化」とバカにしていた(すみません、なんという傲慢)私の評価を覆した。それ以降、いくつかのヴァージョンで観て来たし、長谷川伸の原作も読んだ。大衆演劇では上演時間の制限上前半をカット、後半部分のみを舞台にあげることが多い。昨日の勘九郎主演の『瞼の母』も(もちろん?)原作通りの長さになっていた。ちらしには忠太郎に扮した勘九郎の画像が載っている。

配役は以下の通りである。

番場の忠太郎  勘太郎改め勘九郎
お登世     七之助
半次郎母おむら 竹三郎
金町の半次郎  亀 鶴
半次郎妹おぬい 壱太郎
板前善三郎   亀 蔵
鳥羽田要助   市 蔵
金五郎     彌十郎
水熊のおはま  玉三郎

前半が大事なのは、主人公忠太郎の幼い頃生き別れになった母への恋慕の深さを観客にあらかじめ分っておいてもらうために不可欠だからである。その深さがあるからこそ、後半の母親からの拒絶が彼にいかほど衝撃を与えたかが理解できる。まぁ、年配者の多い観客のほとんどがこのあまりに有名な芝居の内容をあらかじめ知っているから(という前提のもとに)、端折ってもそう影響はないということになっているのかもしれないが。

前半部の最後、半次郎の母おむらに手を添えてもらって、ヤクザ男たちを斬り殺した下手人が自分だと書く無筆の忠太郎。おむらに「母」の優しさを重ねあせて思わず涙する忠太郎。観客もほろりとさせられる。ここでの演技が重要。人物としての造型がきちんとしていないと、芝居後半での母おはまとの対峙の際の彼の受けた衝撃、哀しみの強さがしみじみと伝わってこない。

勘九郎の忠太郎にはもうひとつその情の濃さというか、深さが出ていなかった。彼が演じると忠太郎はスポーツマンのようなさわやかな青年になってしまう。忠太郎はとうに三十歳を超えているのだが、母を恋い慕う、あるいは母のイメージにどっぷり甘えきっている幼さというか未熟さをもった男である。ただ、彼の生い立ちと、くぐってこざるを得なかった世の荒波、なめつくした艱難辛苦が彼を覆っていて、一筋縄ではゆかないしぶとい外面をもつようになっている。この二面性を持つ男として造型しなくてはならない。強靭さと柔和さ、強さと弱さといってもよいかもしれない。あるいは男性性と女性性といってもよいかもしれない。忠太郎という男、その意味ではきわめて興味深い男として、長谷川伸は描いている。この二面性は彼の生来の義侠心の発露にも顕れる。たとえば年増夜鷹の死んだ息子の話にほろりとして彼女に一両差し出すとき、忠太郎の心は完全にその夜鷹の気持ちに共振している。一方、料亭水熊の板前たちの傲慢ぶりに容赦ない怒りを向けるときは、ヤクザ男の強面さを遺憾なく発揮している。

こういう忠太郎の造型はその母おはまのそれと対になっている。おはまも女性性と男性性との二面性を持つ人物である。料亭の身代を考えて忠太郎を拒絶するのはあきらかに彼女の男性的強面の側面だし、娘のお登世にその薄情さをなじられてよよと泣き崩れるところは女性、母そのものである。彼女のお登世に向かっての、「なんで、おっかさんはお前ばかりが可愛いんだろう。あの忠太郎には情がわかないのだろう」という台詞はまさに彼女のそういう複雑な二面性の吐露でもある。となると例の対面のシーンはこの複雑な内面をもつ対称・相似形の母/息子の対決とも考えられる。「娘が可愛い」、そして「ビジネスがなによりも大事」という「現実」を選んだ男性的母、それに対して、あくまでも優しい母のイメージをふっきることのできなかった、幻想にあくまでも固執したどこか女々しい忠太郎。結局は忠太郎が退けられるというのは予期できる結末である。あくまでも「母」の幻想を払拭できない忠太郎には、母が中心にいるビジネス界に入る「資格」はないのだ。ここに長谷川伸自身の複雑な自己評価もみてとれる。

「敗退」させられた忠太郎に遺されているのは幻想でしかない。しかしその幻想は現実に退けられた分、より大きく、確固たるもの「理想化」されている。そこで例の有名な「おっかさんに会いたくなったら、上の瞼と下の瞼をとじればよい。そうすれば懐かしいおっかさんの顔がうかんでくる」台詞が、生き生きとしてくる。また、追って来たおはまとお登世をさけて隠れているときの表面だけみればなんとも「女々しい」台詞、「出て行ってなんかやるものか」という台詞が真実味を帯びて伝わってくるのだ。

勘九郎版忠太郎があくまでもさわやかである。でも「女々しさ」を、そして「幼さ」を殻のようにつけたどろくさい忠太郎をこそ、長谷川伸が描きたかったのはないか。

女形の玉三郎のおはまはその意味でも、初めから成功しているみたいなものである。事実のびのび、いきいき、縦横無尽に演じ、この役を楽しんでいるのが伝わってきた。彼の役の理解はさすがに深く、また鋭いと感心した。どちらかをいうとおはまの「男性性」を強く打ち出したので、もう少し女性的な弱さとの相克を「型」としてではなく、内面の演技として出した方が分りやすかったように思う。そうなると完全にリアリズム演劇になってしまうから、それを避けたのかもしれないけど。

こう考えてくると長谷川伸の芝居は難しいのかもしれない。けっこう心理劇的側面をもっているから。歌舞伎調に演じるのか、新派風に演じるのか、それともリアリズム劇、心理劇として演じるのか。このあたりを演者全体で統一させて舞台にあげないと、観る方が混乱するかもしれない。また演じる方もやりにくいに違いない。

それにしてもこの歌舞伎とはおよそかけはなれた演目を襲名披露の演目に選んだ勘九郎はあっぱれである。彼の祖父の勘三郎が何回か演じ、あと現猿翁(当時の猿之助)も何回か演じている。さらには彼自身の父、前勘九郎(現勘三郎)も舞台に乗せているが、いわば異端の演目である。異端児である、つまり歌舞伎に新しい風を吹き込みたいと思っていた新進気鋭の当時の勘三郎、猿之助、勘九郎がこれに挑戦したのは不思議でもなんでもないが。だから優等生の勘九郎があえてこの演目に挑んだというのは、先人の気概に触れたからに違いない。おはまに玉三郎を迎えているから(これも今考えられる最高の人選である)、今後も玉三郎に倣いながら、いずれは対等に渡り合えるだけの力量をつけて行くことを期待したい。