yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

映画『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』(The Ides of March)

機内で見た映画。日本では未公開のようだが、すでに日本語の公式サイトもある。

ちょうど大統領予備選のスーパー・チューズデー が先ほど終わったばかり、機内で読んだWall Street Journal によれば共和党候補はミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事とサントラム元上院議員が相変わらずのデッドヒートを演じているようである。ただ、獲得した代議員の数は依然としてロムニー氏の方が170人程度凌いではいる。こういう時期に、しかも知事あがりの候補と上院議員あがりの候補との闘いとなると、この映画の公開はきわめて時宜を得たものといえる。映画中では共和党ではなく、民主党の予備選ということになってはいるけれど。

Wikiにすでにアップされているので、以下にその紹介部分をはりつける。

『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』(スーパー・チューズデー 正義を売った日、The Ides of March) は、2011年のアメリカ合衆国の政治ドラマ映画。2004年の民主党大統領予備選挙に立候補したハワード・ディーンの選挙スタッフだったボー・ウィリモンが同選挙に着想を得て書いた戯曲『Farragut North』を原作とし、ジョージ・クルーニーが共同脚本・監督・主演を務めた。

残念なことに、役の説明に間違いがあり、ライアン・ゴズリング演じる主役のスティーヴン・マイヤーズは「元知事」ではなくモリス候補の選挙参謀の一人で、元ペンシルバニア知事はモリス候補自身である。公式サイトが正しい。公式サイトでも「?』と思う箇所が一カ所あったが、映画が公開されれば訂正されると思う。公式サイトはとてもよくできているので、ネタバレがいやな人は読まない方がいいかもしれない。

共同脚本、監督、加えてモリスを演じたジョージ・クルーニー の思い入れがこもった力作である。政治が「きれいごと」でないこと、はたまた政治に正義などないことを、赤裸々に描いてみせている。

野心に溢れている、それでいて正義感の強い若い主役のスティーヴンと、「清廉潔白」を売りものにしている民主党候補のモリス。モリスに心酔しているがゆえに、選挙参謀としての役割に全身全霊を投入しているスティーヴンがさまざまな政治的駆け引きに巻き込まれ、幻滅して行くさまは、ただ痛々しい。

(以下、ネタバレがあります)

幻滅の総仕上げはモリスが若く美しいインターンのモーリー(まだ二十歳)を妊娠させたことを知る下りである。モーリーと一夜を過ごしたときにスティーヴン自身がそれを知るのだが(この場面、衝撃的)、ここをスティーヴン役、モーリー役ともに好演。中絶する費用をスティーヴンがもち、クリニックまでモーリーを連れて行くところ、さらに一人帰宅したモーリーが仲間からスティーヴンが選挙参謀をクビになったと知るところも、この二人は好演。モーリーはすべてが自分のせいだと思い込んで自殺するのだが、このあたりの話の進め方も秀逸。若い純粋な女性が政治という怪物にひとたまりもなくつぶされてゆくさまも、痛々しい。

キャストでいうなら、主役たちがよかったのはもちろん、キャンペーン・マネージャー、ポール・ザラ役のフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が光っていた。さすがあの『カポーティ 』(2005年)で賞を総なめした役者である。

スキャンダルを握りつぶし、あるいはそれすらも自分に有利になるように利用する凄まじい政治家。いくら野心があるとはいえどこか純粋さを残している若い人との対比が、際立っている。そして政治が純然たる駆け引きの上に成立するものであり、それ以上でもそれ以下でもないことが、淡々と描かれている。このあたり、あの『正義派映画」の『ウォール街』を思わせる。クルーニーはおそらくオリバー・ストーンを意識していたんでしょうね。

女性の立場からひとこと。クリントン大統領の例を待つまでもなく、政治家がインターンに「手をつける」のはよくある話で、スキャンダルがタブロイド誌の新聞沙汰になることも私がアメリカにいた間によくあった。クリントン大統領の場合もモニカ・ルインスキーさんはやっぱり政治という怪物の「犠牲者」なんですよね。

ちなみに原題のThe Ides of Marchはシーザー暗殺日にちなんだものだとのこと。映画公式サイトで知った。もちろん3月のスーパー・チューズデーにもかけている。この公式サイトは蘊蓄をふくめいろいろな情報が得られて、タメになります。

この映画、はたして日本で受けるかどうか、ちょっと心配である。そもそもアメリカの大統領選への関心が高いとはいえないだろうし、熾烈な政治的な闘いを描くという社会派映画を「楽しむ」ということから日本人的心情がかけはなれているように感じるから。もしヒットしたなら、日本人も政治という舞台に「参加する」意識を持ち始めた兆しととらえられるだろう。