yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『慶安の狼 丸橋忠弥』@松竹座2月4日昼の部

この演目について昨日書くつもりだったのだけれど、3月の国際学会での発表に提出する原稿が仕上がらず、それが延びてしまった。原稿は一週間遅れで今日メールで送った。

この演目も『大當り伏見の富くじ』と同じく、歌舞伎という範疇を超えて行く試みだった。もともと新国劇のもので、昭和40年(1965年)初演だという。原作は小幡欣治で、演出には新派の大場正昭を起用している。新国劇と新派とが歌舞伎の舞台上で融合したのだ。意欲的な作品に仕上がっているのは当然だろう。

「由比正雪の乱」(慶安5年、1651年)という歴史上の事件を扱っているのだが、正雪の一味だった槍術家の浪人丸橋忠弥とその幼なじみで今は大名家に士官している野中小弥太との関係ーー友情、裏切り、そして死を前にしての和解ーーが描かれる。ぴあ関西版に以下の簡潔な筋が出ていたので、拝借する。「由比正雪の乱」が起こるべくして起こった時代背景がよく分かる。

徳川三代将軍家光の治世、多くの大名家を取り潰したことで町には俄浪人たちで溢れていた。本郷の居酒屋では槍術の名手丸橋忠弥と由比正雪の門弟たち浪人の姿が。そこへ旧友の野中小弥太がやって来て、忠弥を藩へ推挙していると話す。しかし、忠弥はそれを固く断る。忠弥は由比正雪達と幕府転覆の計画をたてていたが、計画の邪魔となる小弥太を殺せと要求されていたのだった。そして計画が決行されようという時、酒に酔った忠弥が計略を大声で豪語する。そんな軽率さに、忠弥配下の本吉が危惧の念を抱き、異を唱え始める。悩む正雪だったが計画の為にと本吉に忠弥を撃つことを許すのだった。

配役部分もついでに拝借。

丸橋忠弥……中村獅童
野中小弥太…片岡愛之助
由比正雪……市川染五郎
田中格之進…中村亀鶴
石山平八……尾上松也
内藤主膳……坂東薪車
本吉新八……澤村宗之助
廓念…………松本錦吾
忠弥妻節……市川高麗蔵
忠弥母藤……坂東竹三郎
金井半兵衛…大谷友右衛門
牧野監物……中村歌六

ちなみに、このぴあ関西版の染五郎へのインタビュー記事、とてもよくできていて、これで初めて染五郎がなぜ『大當り伏見の富くじ』に全霊を注ぎ込んでいたのかが、よく分かった。また新橋演舞場での「勘九郎襲名」を超えてやろうという意気込みだったことも分って面白かった。私の予想では間違いなく超えていると思う。

こうやってみると、徳川家光から徳川家綱に移行する時期がかなりきな臭い時代だったのが、生き生きと立ち上がってくる。私など、家光といえば「大奥」やら春日局絡みで他の将軍より少しはなじみがあったのだけれど、(というか、そんな気がしていただけだが)、おかげさまで歴史上の事件でしかなかった「由比正雪の乱」の背景が読めた。

もちろん忠弥役の獅童が主演、小弥太の愛之助がそれをサポートという形である。この二人、息がぴたっと合っていた。それは『研辰の討たれ』でも窺えたのだが、特に最後の立ち回りの場面ではそれがはっきりと出ていた。この立ち回りこそ、新国劇の真骨頂で、最大の見せ場である。歌舞伎はこういう立ち回りを排しているから、一体どう演じるのだろうといささか危惧したのだけれど、ほぼ完璧だった。この3年というもの剣戟が大きな要素を占める大衆演劇を間断なくみてきたので、私は立ち廻りにはいささかうるさいのです。去年劇団新感線の『髑髏城の七人』にがっかりした理由のひとつがそのpoorな立ち回りだった。身体ができていない役者がいくらそのときだけきばってみてもダメなんですよね。さすが歌舞伎の役者さんは身体ができているのだと、妙に感心してしまった。

これは二人の演技というのではなく、話の展開の仕方ーーそれが原作にあるのか演出法にあるのかは分らないがーーに少し無理があったように思う。特に忠弥小弥太が忠弥を裏切るところ。番附けの解説には「小弥太が忠誠心から家老牧野に忠弥たちの謀反を密告する」とある。この「忠誠心から」という説明はおかしい。というのも小弥太は保身から密告するのだから。愛之助さんはそのように演じていたので、これはおそらく演出の方に問題があったと思う。でもその「保身のための寝返り」という点が今ひとつ真に迫ってこなかった。大衆演劇は厳しい時間制約があるので、しばしば説得力に欠ける展開があるが、このお芝居では納得させる演出が可能なはずである。ここまで現代劇にしているのだから、やはりそのあたりの小弥太の心理をもう少し念入りに描いた方がいい。

獅童は完全にそのニンに合った役どころ。暴れ者だが、仁義に篤く筋を通す武士の中の武士。ただその理想主義的な信条のため時代の流れからは逸脱して行かざるを得ない。太平の世になり、武士がもはや武士たることを忘れ、まるで現代社会のサラリーマンのようになってしまった社会。それにいくら抗ってみても、結局は潰されてしまう。そんな純真な男の悲哀を巧みに演じていた。

正雪役の染五郎、こちらの方は目的のためには同志をも平然と裏切る正雪の冷酷さを実にリアルに演じていた。いわゆる「心理描写」は歌舞伎では存在しないから、こういう現代劇調のものを染五郎が演るというのは、すごいことである。新たな可能性を拓いたのだと思う。

舞台装置は現代劇風でありながら歌舞伎ならではの工夫を上手く取り入れていた。とくに最後の立ち回りでの廻り舞台の使い方は見事だった。照明も非常に工夫されていた。

上に配役リストを出したけれども、その役者たちのほとんどが全作品に出ているという形をとっている。これも今までの歌舞伎にはなかった試みである。今度の公演は歌舞伎が今までの慣習を破り新しい挑戦をしている、こんなにおもしろいんだということを広く知らしめる良い機会になると思う。