yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『大當り伏見の富くじ』松竹花形歌舞伎@松竹座2月4日昼の部

これはすばらしかった!歌舞伎の新境地を拓いたに違いない。今まで歌舞伎ではアンコールやらスタンディングオベーションに出くわしたたことがなかったけど(唯一の例外は勘九郎がNYから凱旋公演した折の『夏祭』だったが、これは欧米に倣ってのものだった)、松竹座の観客がアンコールをかけた!総立ちとは行かなかったが、それは歌舞伎の観客に馴染まなかったからだろう。とにかく手放しの賞賛の歓声があがっていた。

染五郎がこの演目にかけた意気込みが窺えた。夜の部の「研辰の討たれ』でも劇場内を走り回る「捕りもの」を愛之助、獅童と繰り広げるから、体力勝負の演目を並べたことになる。まだ本公演が始まって2日目だから、このあとこれを26日までやるとなると、1年分の体力を(精神力も)使い果たしてしまうんじゃないかしら。

『富くじ」ものは落語によくあるネタのようで、先日は都若丸劇団で『大当り高津の富くじ』をみた。これも落語からのものだった。オチの付け方などの内容が似ているのかと思っていたら、まったく違ったものだった。共通しているのは落語ネタの喜劇だったことである。ただし、都若丸劇団の方が松竹新喜劇風だった、つまり完全に上方風だったのに対して、こちらの方はどちらかというと小劇場っぽい喜劇だった。おそらく今までになかった喜劇のジャンルを開拓したいという染五郎の思いがこういう形をとらせたのだろう。

脚本、演出が新派文芸部の斎藤雅文で、染五郎の「今まで見たこともない、やったこともない、笑い満載の喜劇を、歌舞伎で!」という注文を受け、落語ネタと明治期の新歌舞伎、「鳰の浮巣』をもとにしての書き下ろしだそうである。歌舞伎には「喜劇」といえるジャンルが乏しいので、「歌舞伎喜劇」というジャンルを創りたいという染五郎の要望から生まれた喜劇ということだった(番附けより)。歌舞伎の伝統は伝統として守る必要はあるだろうけど、歌舞伎そのものの成り立ち、歴史を考えると時代時代に合ったものを貪欲にとりこんで来た経緯がある。歌舞伎を強く意識するとこういういわば「はちゃめちゃさ」に満ちた脚本、演出にすることは難しいだろう。だから歌舞伎界以外の人に依頼したのだと思う。これは卓見だった。演じる側もそれに見合って、若い役者が、それも歌舞伎クラン(家)の主流から外れている人が多かったのもこの芝居の成功に寄与したのは間違いない。それは歌舞伎がその原点の精神に立ち返るということでもある。

こういう試みは大衆演劇ではずっと採られてきた試みだし、すばらしい作品を多く生み出してきている。歌舞伎もようやく時代や観客の嗜好に眼を向け出したということだろうか。それを勇気をもってやろうと乗り出したのは染五郎、獅童、愛之助のような「若い世代」で、彼らには伝統、因習の重荷を跳ね返しながら、どんどん新境地を拓いて行って欲しい。ときには失敗もするだろうけど、それは前に進むのにはつきものの痛みだろうから、批判をうけてもめげずに邁進して欲しい。「新境地開拓」は現勘三郎が若手のころから試みて来たことでもあるし、スーパー歌舞伎の猿之助がずっと見据えて来たことでもある。長年しているとそれがマンネリズムになってしまうから、それのみが唯一の危惧だけど、この若手層の厚みを考えるとそれも杞憂になるような気がする。

詳しい筋は書かない。主人公は紙屑屋幸次郎。これはもちろん『心中天網島』の紙屋治兵衛のもじり。もとは質屋の若旦那だったのが、店が潰れ今は零落している。お人好しで間抜けながら、もと大店の若旦那だったという色気は失っていない。このあたり上方狂言の「つっころばし」そのものである。紙衣を着て夕霧を訪ねる伊左衛門のイメージである。そういえば東京の役者がつっころばしを演じるのは珍しい。つっころばしといえば、現藤十郎だし、現仁左衛門なんですよね。そういえば翫雀も演じたことがあるから、染五郎にアドバイスをしたのでは。

「見染め」はもちろん『籠釣瓶』の本歌どり。筋を回すのは「見染め」。見染めの相手、鳰照太夫を演じるのは翫雀。幸次郎は太夫の花魁道中をみて太夫に一目惚れをするのだが、ここで太夫が幸次郎に「にっ」と婉然と笑いかけるのも『籠釣瓶』そのまま(というより、これも六世歌右衛門が始めたことらしいのだけれど)。この「にっ」にお客さん大喜び。というのも、『籠釣瓶』の八ツ橋は細身の役者が演じるのに、翫雀は身体も顔もぽっちゃりで、およそ八ツ橋のイメージとはほど遠いから。でも太夫をあまりにも戯画化するといけないわけで、ここの演じ方はけっこう難しいと思うのだが、さすが翫雀!とても上手かった。

こうみてきただけでも、上方歌舞伎と江戸歌舞伎とのさまざまな要素を貪欲に取り入れ、組み合わせたり、融合させたりしていることが分るだろう。そしてそのごった煮が成功しているのがスゴイ。

舞台は衝立状のものをいくつか立て、それらを組み合わせて場面設定をしていた。これは場面転換をスムーズに進め、また観客を場面の中に引き入れるのに寄与していたと思う。ここでも廻り舞台が実に有効に使われていて、感心した。今までの歌舞伎とは違った使い方で、場面に動きを、ダイナミズムを加えるという働きをしていた。こういう演出は去年みた「劇団新感線」のものと共通していた。

90分以上にわたる長さで、ちょっと冗漫に感じる部分もあった。もうすこしシェイプアップした方がいいところもあったけど、それでもこの長さを飽きさせず、ワクワクさせながら観させるというのは、今までの歌舞伎ではなかったに違いない。ただ感服。

本公演のプロモーションビデオがyoutubeにアップされている。以下である。