yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ボリショイ・バレエ 『ライモンダ』@びわ湖ホール 1月28日

楽しみにしていたボリショイ・バレエ公演をみてきた。4階席だったが、舞台上手よりの第一列目なので、踊り手の表情まで良く見えた。オペラグラスを持って行ったがなくてもじゅうぶんだったかもしれない。とにかく初めてのバレエ団で、踊り手の名前も特徴もまったく知らないままに観たので、やはり個人の顔がオペラグラスで識別できたのはありがたかったけど。

これはびわ湖ホールだったからかもしれないが、つい最近みたミハイロフスキー・バレエ団(レニングラード国立バレエ団)の演出よりもかなりオーソドックスというか地味な印象を受けた。とくに照明と背景、そして場面転換の仕方。毎日移動しているようで、今日は浜松公演なので、その点はかなり制約を受けたのかもしれないが、それよりも劇団の目指す方向性がミハイロフスキー・バレエとは違っているのではないだろうか。保守的な体質で、伝統を守るというところに力を注いでいるバレエ団のような気がする。ミハイロフスキー・バレエが革新を標榜している(感じがした)のとは対照的だった。

踊り手に関しては、バレエ鑑賞歴がほとんど無に近いので核心的なことは分らない。でもミハイロフスキー・バレエよりも「古典的」な踊り手が多かったように思う。ミハイロフスキー・バレエがどこか殻を破るというところに重点を置いていたのと、これも対照的だった。以下がプログラムに記載されていた出演陣である。

ボリショイ・バレエ 『ライモンダ』(全3幕)
演出・振付:マリウス・プティパ/アレクサンドル・ゴルスキー
改訂振付:ユーリー・グリゴローヴィチ(2003年版)
美術:シモン・ヴィルサラーゼ
管弦楽:ボリショイ劇場管弦楽団

《キャスト》
ライモンダ:マリーヤ マーシャ・アレクサンドロワ 
ジャン・ド・ブリエンヌ(ライモンダの婚約者):ルスラン・スクヴォルツォフ 
アブデラフマン(サラセンの騎士):パヴェル・ドミトリチェンコ
クレマンス(ライモンダの友人):エカテリーナ・シプリーナ
アンリエット(ライモンダの友人):アンナ・ニクリーナ
ベルナール(吟遊詩人):ウラディスラフ・ラントラートフ
ベランジェ(吟遊詩人):デニス・ロドキン
ふたりの騎士:エフゲニー・ゴロヴィン、カリム・アブドゥーリン
夢の場面 第1ヴァリ:チナーラ・アリザーデ
    第2ヴァリ:ダリーヤ・コフロワ
サラセン人の踊り:ユリア・ルンキナ、デニス・メドヴェージェフ
スペイン人の踊り:クリスティーナ・カラセワ、マリーヤ・ジャルコワ
マズルカ:クリスティーナ・カラセワ、アントン・サーヴィチェフ
ハンガリーの踊り:アンナ・レベツカヤ、アレクサンドル・ヴォドペトフ

演出のグリゴローヴィチは1927年生まれの85歳。Wikiの解説によると、「グリゴローヴィチは従来のバレエ作品に多かったマイムを極限まで減らし、舞踊のみの見せ場を多く作った。ソリストの演技的舞踊による可能性を追求し、群舞が曲想に厚みを持たせるスケールの大きなバレエ作品を作り上げた。」とのことである。たしかに、舞踊の見せ場が多かった。バレエが踊りである以上、それは当然なのかもしれない。でも私にはそれがかなり物足らなかった。踊り手がそういう舞踊をする「必然」がもうひとつ見えてこないから。バレエはたしかに舞踊だけれど、演劇でもあって欲しい、と思っている私のような者には、劇としての解釈が表面的な観が否めなかった。個人舞踊が群舞に発展するところ、あるいは群舞が個人舞踊に収斂するところのその流れそのものが、登場人物の心理を示す絶好の場だと思うのだけれど、そこに説得力が欠けていたので、不完全燃焼の思いが残った。

踊り手はみんなすごい力量だった(のだと思う)。でもこれも、「ウルトラ技をみせてもらった」という感じに終始した。プラスアルファ、つまり心理に踏み込んでの表現が今ひとつだったように感じられた。

主人公のライモンダを踊ったマリーヤ(マーシャ)・アレクサンドロワの第二幕での踊りは例外で、ライモンダの心の揺れを表現する繊細な踊りだった。でも(「りっぱ」すぎて)初々しいライモンダ姫をするには筋肉質すぎるし、全般的にたくましすぎるように思った。もっともあれだけ(ほとんど出ずっぱり)の舞踊をこなすには、あの筋肉は必須条件なのだろうけど。

ライモンダの婚約者のジャンを踊ったルスラン・スクヴォルツォフもどちらかというとその筋肉質が目立っていて、うら若い騎士という感じはしなかった。もっと若手の方が良かったのでは。背があまりないので、マント姿は似合っていなかった。

ライモンダの友人役のエカテリーナ・シプリーナとアンナ・ニクリーナはどちらも主役級(プリンシパル)の人たちのようだった。私がとくに上手いと思ったのはニクリーナで、可憐さが技を突き抜けて表現できていた。やたらと「目立たない」ところが良かった。

男性の準主役級の吟遊詩人を踊ったウラディスラフ・ラントラートフとデニス・ロドキンも若々しく、超絶技巧も嫌みでなくてとてもよかった。なによりも素直に美しかった。

敵役のアブデラフマン(サラセンの騎士)を演じたパヴェル・ドミトリチェンコはある意味「もうけ役」で、この人の踊りは古典的というよりそれを破ろうとしている感じがした。エキゾチシズムが立っていた。

全体を通して一番良かったのが「グラン・パ」で、これは壮観だった。観客も同じ思いだったと見えて、「ブラボー」の声が高くあがっていた。

演出面だが、幻想シーンが上手く機能していなかった。踊り手をとっかえひっかえ出すために(それもソロ、デュオ、グラン・パと)場面転換している、つまり幻想部分を全体の物語で生かす、意味づけるというより、踊りをみせる方が第一目的になっているので、せっかくのおもしろい場面が半ば殺されてしまう。ミハイロフスキー・バレエ団の「海賊」で、幻想場面が非常に効果的に使われていたのと、どうしても比較してしまう。

バレエが単に踊りの超絶技巧をみせるためのものではなく、全体としての芸術的完成度をみせるものである以上、この演目は期待はずれだった観は否めない。いろいろな方たちがボリショイバレエといえば『ライモンダ』と褒めているのだけれど、むしろ他の演目、例えば古典中の古典、『白鳥の湖』などの方がボリショイバレエの本領が発揮できるのかもしれない。『ライモンダ』は前のブログにも書いたように、そのテーマ自体が"controversial" である。そこにどう新しい「解釈」を加えるかというのは、やはり若い演出家でなければ無理だろう。演出によってはずっと面白くなるだろうし、踊り手を超絶技巧を披露するだけの演技から「解放」することも可能になるように思う。