yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ジョブズのメモリアルサービスでのヨーヨー・マの演奏

もう、ことばもなく感動することがある。アイザックソンのジョブズの伝記にはそういう場面がいくつかあった。その一つがジョブズとヨーヨー・マとの交流だった。ジョブズがクラッシック音楽の演奏者として尊敬していたのがマだった。1981年、アスペン音楽祭でマの演奏を初めて聴いたジョブズは感動し、自分の結婚式でも演奏してもらおうとしたのだが、あいにくとその時期マはツアー中だった。その数年後ジョブズの家にやってきたマは、ストラディヴァリウスのチェロでバッハを演奏、「これがあなたの結婚式で弾くはずだった曲です」と言った。ジョブズは涙ぐみ、「あなたの演奏は神の存在を知らしめるもっともよい証拠になる。なぜなら、人が人であるだけではそこまで神々しいレベルの演奏ができるはずはないから」と応えたという。それからもマはジョブズ宅を訪問する機会があったが、その頃すでに癌におかされていたジョブズは、マに彼の葬式で演奏することを約束させたという。

その約束は果たされた。10月16日、スタンフォード大学の教会でのジョブズの告別式でマは演奏した。おそらくバッハを。このエピソードを車中で読み、電車を降りて勤務先へ歩いて行く途中、ぽろぽろ涙がでて困った。

ジョブズがソニー・ミュージックやらボブ・ディランやら、U2 のボノやらと交渉する場合、ことビジネスになるといくら彼らが友人であってもジョブズはタフ・ネゴシエーターである。そういう経緯とジョブズのエキセントリックな人となり、行状をみてくると、このマとの交流は意外な感じがする。しかしジョブズのもっともジョブズらしいところがこのエピソードに顕れているような気がする。ジョブズはいわゆる老獪なビジネスマンではない。その芯の部分には子供が、それも美しいものに憧れ、それに近づこうとする純粋な魂があったのだろう。それがこのエピソードに余すことなく示されているように思う。とくに、このエピソードの前に延々と紹介されるジョブズのビジネスの交渉を読んだ後では。

また、ジョブズが「神」(God) という語を使ったことに驚きも感じる。この神はもちろんキリスト教の神だから。若い頃に禅に傾倒、東洋思想に惑溺したジョブズが、最期にはキリスト教に還ったのだ。さらに、彼を送る音楽にはヨーヨー・マのバッハ演奏を選んだというのも、何か象徴的な気がする。マは中国人の音楽家の両親の元にパリで生まれ、アメリカで育った、いわばデラシネの要素をたぶんにもった音楽家である。ジョブズも生みの親の手を離れて「流浪」せざるをえなかった芸術家である。そういう共通項があったからこそ、他の演奏者ではなくマの演奏が心に響いたのではないだろうか。

ヨーヨー・マはフィラデルフィアでの演奏を一度聴いたきりだけれど、たしかに技巧だけではなくその精神性が超人的だった。ずっと記憶に残る演奏だった。

超人同士の出会いってあるものだと思った。そこには「神」の意思のようなものが働いているのかもしれない。