yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

プラハの国際学会

提出していたプロポーザルが通ったので、論文本体を早めに仕上げなくてはならない。今年の3月にも国際学会でプラハに行ったけれど、それとは母体は同じ(interdisciplinary Net)である。英国のオックスフォード大学に本部を置いて、毎年複数の分科会が年次大会をやっている。文字通り学際的で、今回私が参加するのは「悪」がテーマになっているが、社会学系の発表がもっとも多いのではないかと推測している。3年前にザルツブルグで開催された同じテーマの分科会でペーパーをよんだが、そのときは文学系の発表もけっこうあって、私にはとてもタメになった。世界から各分野の切れ者が集まってきているという観があった。

3年前は「「切られお富」における『悪婆』について」のペーパーだった。主人公のお富が幕末という社会背景の中で、何度も役割を与三郎と交換させられながら、「悪婆」として認知、確立されて行くジェンダーポリティックスを論じた。『切られお富』の正式名は『処女翫浮名横櫛』(1864)、河竹黙阿弥作である。黙阿弥はこの11年前に既に世に出て好評を博していた瀬川如皐作『与話情浮名横櫛』(1853)を、お富を主人公にして書替えたのだ。以下『歌舞伎事典』からの写真で、1992年、国立劇場での『切られお富』。澤村宗十郎のお富、市川段四郎の蝙蝠安である。
国立劇場のサイトから写真をお借りする。


もちろん『切られお富』よりも『切られ与三郎』の方が今では上演回数は多い。以下Wikiからの画像。錦絵としても人気が高かったのが窺える。

今回も演劇、それも『明治一代女』をやるので論点が被らないように注意しなくては。前回、録画された『切られお富』の資料がなくて、結局映画版「切られ与三郎』を補助資料に使った。今回は映画があるけれど、川口松太郎の原作とはかなり違っているので切り取る箇所を慎重に選ばなくてはならない。おそらくスーパー兄弟が演じたのが原作に即した新派のものに近いのだろう。いずれにしても映像を見せれる時間は5分から10程度と短いので、論の展開にはそう影響がないかもしれない。

今年の3月は震災直後で海外に出るのさえなんとなく後ろめたかったけれど、来年はどうだろう。