yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『若き日の信長』in 九月大歌舞伎@松竹座9月22日

大佛次郎原作の「新歌舞伎」。大佛次郎自身が11代目團十郎のために書き下ろしたということで、成田屋のお家芸になっているようである。最近では平成11年のもの(信長は現海老蔵の新之助が、藤吉郎は現松緑の辰之助)が最後で、今回実に12年ぶりの舞台である。

歌舞伎と銘打っているし舞台も戦国末期だが、完全に現代劇。歌舞伎に新しいジャンルーー心理劇ーーを拓こうとした試みである。こういうジャンルは大衆演劇の劇団がとっくに試みているわけで、これを伝統歌舞伎のアイコンでもある成田屋がどう料理するのかに興味があった。

海老蔵をみるのはずいぶん久しくて、まだ新之助だった頃の記憶のままなので、そのイメージとのギャップに少し戸惑った。観た印象。一言で言えば、巷間の評価と昨日の信長の演技が一致したということになる。つまり「無謀」さと「無邪気」さとをないまぜにした「若い(未熟な)」キャラとでもいうのか。新之助時代にはそれがそういうキャラが歌舞伎界では珍しくて、その枠に納まらない破天荒さに勢いがあって面白かった。それが例の事件という結果になったのだろうが、それを経て、今回それを超える何かをみせてくれるのかという期待があった。

でも海老蔵は「若い」ままだった。この芝居の信長はけっこう難しい役どころである。26歳という設定ではあるが、武士の世界の暗闇をすでにみてしまった男、ある種の老成を遂げた男として登場する。でも彼がどう力んで叫んでみても、そういう暗さが浮き上がってこなかった。番附に載っているインタビューで彼の弁。

信長がどういう人物で、何者なのかを考えて演じたいです。若いうちの信長は、ただ暴れていたとか、ただ豪快で気性が激しいとか言われたり、思われたりしますが、そこには才があるということを、僕自身も理解して表現したいと思います。

「才」があるとうのではないんですよね。ただ周囲を誑かすためにハムレットを演じていたのではないんですよね。弱肉強食を通さざるを得ない、きれいごとではない武家社会。裏切りにつぐ裏切りの中を生き伸び、それでもなおかつそれを甘受できない純さ(子供っぽさ)をもつ男であり、その矛盾を理解できない周囲、特に理解者であるはずの爺の中務との葛藤に苦しんでいる男として、信長は描かれている。このあたりはまさしく心理劇の独断場で、それを読み込んで演じれるかどうかに役者の器量が窺える。

信長の孤峰として屹立したさまはいくつかの場面、エピソードとして示されている。まず父の法要をさぼって子供たちと戯れている反抗心と無邪気さに、敵方の間者を見抜く鋭さに、人質の弥生への優しさに、爺、中務の諫死への嘆きにみられる孤独に、そしてなんといっても父への取りなしを申し出た弥生に対する「すでにお前の父は殺した」というその冷徹さに、織り込まれている。だからこそ天下統一の一歩手前までいったのである。その複雑さを90分余りで演じるのは難しいに違いない。だからこそその役者の器量、内面が重要になってくるのだと思う。

中村壱太郎の弥生が良かった。出しゃばりすぎず、でも目立たないというわけではなくて、人質の哀しさ、信長へのほのかな恋心を可憐に演じていた。さすが三代目鴈治郎のお孫さん。2年前に尼崎アルカイックホールでみたときより、ずっと成長していて、うれしかった。