yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

映画『ツリー・オブ・ライフ』@TOHOシネマズ西宮

映画館でみたこの映画は、さらにすばらしかった!ただただ圧倒された。最後の海でのシーン―—母と亡くなった弟、そして主人公(大人になったジャックと子供のころのジャック)が母と抱き合う場面――では感動のあまり泣いてしまった。バックの音楽がこれほど感情を盛り上げたのを知らない。静謐で、深い悲しみに満ちた音楽だった。Zbigniew Preisner作曲の "Lacrimosa-Requiem for a friend" (友へのレクイエム)だという。Youtube でこの音楽も聴けるし(タイトルにリンクをはっておいた)、他の場面の音楽も聴ける。どれほど観た人間を感動させたかが、それらにつけられたコメントからも読み取れる。

サウンドトラックがここまでの完成度であるのも珍しい。全編音楽のアンソロジーで、そのシーンでの登場人物の心のうちを、そして語り手であるジャックの葛藤と受容をこれほど雄弁に語るものはないだろう。上にはったリンクからYoutube に入ると右欄に出てくるリストにサウンドトラックの他の音楽もアップされている。例外なくその美しさに圧倒されるけれど、なんといってもトップ3はこの「レクイエム」と John Tavenerの "Funeral Canticle" 、そして Berlioz (ベルリオーズ)の "Agnus Dei" from "Requiem" だろう。この三曲ともに死者を悼む音楽である。

愛する者の死、それはだれにとっても受け入れ難く、ヨブが神に問いかけたように「神よなぜあなたは私から愛するものを奪ったのですか、なぜわたしにこれほどの試練が与えられるのでしょうか」という問いを発するはずである。その喪失感は他のなにものによっても埋められるものではない。到底受け入れ難い喪失である。ジャックの母のように、ただただ嘆くしかない。その悲しみの癒しとして、この映画の音楽は存在する。

この映画をひとことで言い表すなら、「『ヨハネ黙示録』の映像化/音楽化」とういことになるだろう。黙示録は英語では "Apocalypse" というのだが、これは新約聖書のヨハネ黙示録を指すとともに、もっと広範の意味を持たされている。この「黙示録」中、もっとも重要な箇所は、「我はアルファであり、オメガである。最初のものであり、最後のものである。初めであり、 終わりである」(『ヨハネ黙示録』第22章13節)で、これは爾来多くの思想家、芸術家の関心を惹いてきた。だからこの監督のマリックが映像として描きたいと考えても不思議ではない。

その一つの試みが、宇宙の生成を冒頭においたことだろう。映像も迫力満点である。爆発を繰り返しながらやがて一つのプラネットを創りだす。そこには様々な生物が生まれ、そして進化をしながらやがては人間の誕生となる。まさに創世記。それが最後の場面では見渡す限りの海原(東洋的な西方浄土とも共通したイメージ)を死者たちが地平線の彼方へと歩いて行く姿が映し出される。そして、それが宇宙の場面に切り替わる。ここに黙示録にあるような「終わり」が示されているのだと思う。人の生もその宇宙の森羅万象の一つにしかすぎない。どうあがいても生はかならずや死に繋がって行く。

少年ジャックの「性の目覚め」も描かれている。近所の家にこっそりと入ってその家の美しい女性のスリップを盗み出すところ、それは「お母さんにはいえない」と泣いてしまうほど彼自身を当惑させるものだった。その基を辿れば、それは母への愛であるから。彼は母を愛してやまない。映画でははっきりとは描かれなかったももの、この愛はもちろん性的なものも含む。

その母への愛情は当然父への反感、憎悪となる。このあたりはまさにフロイト/ラカンである。「父の法」のもとに徹底して貶められるから。ジャックがなんども自分が「貶められる」ことに意識的なのも、この時期を通り過ぎようとしているイニシエーションのステージに入ったからだ。「父の審級」への抵抗。

しかし、父の弱さを見た瞬間に偶像は堕ちた。ジャックがそれ以降は自分自身を「父」に仕立てて生きて行かざるをえない。厳格な父が実は傷心を抱えて人であることを分かったジャック。父がなぜ自分に「ひとかどの人間になれ」と言い続けたのかの理由も。