yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

今年のパルム・ドール、『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of Life) はさすがだった!

『ツリー・オブ・ライフ』(監督・脚本 テレンス・マリック、主演 ブラッド・ピット、ショーン・ペン、ジェシカ・チャスティン)の公式サイトは以下。

『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of Life)

アメリカから帰国するユナイテッドの飛行機の中で観た。ただし最初の10分位見逃している。座席ポケットの中にあった「解説書」に目を通したもののみたいと思うような作品がなく、それでもチャンネルを回していたら、目が釘付けになった映像があった。それがこの映画だった。とにかく美しい映像だった。帰国してからカンヌで今年のパルム・ドールを獲ったことを知ったが、至極妥当だと思った。

それ以来この映画について書きたいと思っていたのだが、全編を映画館で観てからと思っていた。でもやっぱり気になるので先に飛行機でみたままを書くことにした。今日近場の映画館で観てくるつもりである。

この黙示録的な映像はタルコフスキーの『サクリファイス』(これは1986年にカンヌで審査員特別グランプリをとっている)を思い出させた。そう思って日本のネットをみてみると、ヤッパリ同じような感想を持った人が多くいた。アメリカのブロガーサイトにもタルコフスキーに言及しているものがあった。書き手はオヘアさん(Andrew O'Hehir)という映画部門では人気ブロガーのようである。今年の5月26日(パルム・ドール受賞直後)の記事である。彼はタルコフスキーお得意の「カルマ的、宇宙論的、進化論的、そしてキリスト教的ごった煮 (karmic-cosmic-evolutionary-Christian woo-woo) 」といった影は確かにあるものの、キリスト教的ニュアンスがより少なく、そのヒューマニスティックなところはもっと世俗的であり、クリスチャン外の普通の芸術愛好家の鑑賞にも耐えうると太鼓判をおしている。日本人はタルコフスキーを高く評価するから、その目からみると、神秘性というか、「わけのわからなさ」が少ない分、評価は分かれるかもしれない。

オヘアさん、それでもこの映画の下敷きになったのは、『ヨブ記』だという。ヨブの「なぜ神は愛する者を私から奪うのか」という問いかけが全編に流れているのだと主張する。具体的な事象(主人公の弟が若くして亡くなったこと)を指すというより、もっと普遍的で、生/死の不条理を描いている。その点で共通する映画監督の一人として日本の(『殯の森』の)河瀬直美さんをあげている。ただマリックの場合はもっと動きが多く、人物のインパクトが強いという。

私がもっともこの映画で惹かれたのはなんといってもその映像。語り手のジャックが少年時代をすごしたテキサス州の田舎の牧歌的とでもいえる美しい光景、主人公の少年とその二人の弟があそぶ様子。日常生活の最たる、つまり俗の極みの家の内部ですら叙情的に撮られている。カーテンがゆらゆらと風になびいている窓。その風が中の家具、調度をとおりぬけている感じまでつたわってくる。夏の盛りに庭で戯れに水(おそらく「水」は映画のテーマの一つ)浴びをする美しい女性。柔らかい光がその女性を包んでいる。それらがすべて低いカメラ目線で撮られて行く。もちろんこれは語り手である少年の目線に合わせたもの。この低さは小津のローアングルショット (tatami-mat shot) をも思い起こさせた。

そういう「牧歌的」な少年の生活の中で唯一それと対照させられる父。それも最後までファーストネームは明かされずMr. O'Brienと呼ばれる厳格な、それでいて家族を愛してやまない父。それでもジャックにとっては父のみがこの牧歌的な場の不協和音なのである。

この少年の父への微妙な感情の揺らぎを理解していない父、その父もさまざまな葛藤を抱えながら生きているのが、断片的に挿入される映像で示される。ただほとんどそれに対しての「説明」はない。ただ示されるだけである。父の激しい感情は彼のパイプオルガンでのバッハ演奏(これは感動的)で暗示される。でも脈絡ある形でないので、それをつなぎ合わせてストーリーを組み立てるのは観客に任されている。その脈略のなさが魅力でもあるのだが、映像化する対象がミドルクラスの「普通の家族」という一般受けしやすいものなのに、ストーリーが不確なので評価は分かれるかもしれない。映像対象が家族である点、また映像的にも田園風景を撮っている『フィールド・オブ・ドリームス』と似ていたのだが、そこが決定的に違う点だろう。こちらは一般受けがしやすいから。でも見終わったあとに余韻は残らないけど。

なぜか。それはテーマが決定的にちがうから。ハリウッド映画があまり取り上げない「喪失」というテーマをこの映画が取り上げているからだと思う。オヘアさんが『ヨブ記』に言及しているのはその点で正鵠を射ている。

ただ、やっぱりアメリカ人監督だと思ったのは、どこか分かりやすさ、くみしやすさがあるところだった。その点でタルコフスキーとは一線を画している。もちろんくみしやすさに貢献していたのには父役にブラッド・ピットを持ってきたこともあるだろう。彼の映画はほとんどみていないのだが、この演技はすばらしかった。もともとヒース・レジャー(ああ!ヒース!)が演じる予定のところ彼が亡くなってしまったのでブラピになったという。なんといったってハリウッドのブラピですからね。観客を「とっつきやすい」という気にせるでしょう。

もう一つ特筆すべきだと思ったのは少年ジャックを演じたハンター・マクラケンで、父との確執を繊細な演技(とくに目線)であの年齢であそこまで描けるとはほんとうに驚きである。


母親役のジェシカ・チャスティンはブラビに負けない存在感だった。それも超俗的、少女のような美しい母、おそらくは男の頭に永遠に残るどこか「神秘的な女性」を麗しく演じていた。かつ「喪失」を具現化するという難しい役どころを演じて不足がなかった。