yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

図書館がなくなる?

一昨日、ヴァンペルト図書館のEast Asian Collections の主任司書のアルバンに会った。その折に彼が日本にこの5月に来訪していたと聞いて、なぜ連絡をしてくれなかったのかとなじってしまった。私のペン大の時のメールアドレスが2009年頃まで有効だったので、新しいアドレスを連絡していなかったせいだった。西田幾多郎の研究をしていて、当然京都にも行ったとのことだった。ただ、今は新しい本の出版を企画しているという。それが何なのかを教えてくれなかった(多分ワタシがおしゃべりだから)。来年5月には関西を集中的に回るとのことだったので、大衆演劇を一緒に観ようと約束した。彼の新しいプロジェクトにも幾分かかかわっているようだから。

昨日は大学すぐそばの「大学城」という中華料理屋で昼ご飯を一緒した。その折に、ペン大では図書館の本はニュージャージーの書庫で保管、図書館自体は書庫を減らし、リサーチセンターのようにする計画と聞いた。そういえば図書館5階の一部の本がなくなっていたのに気づいた。ショック!書籍も電子版に移行しつつあるし、クラウドのサービスも充実してきているから、いずれそういう事態が来るだろうと予想しないわけではなかったが、でも本があっての図書館だから、図書館のイメージも意味も根底から変わってしまうのだろうか。

紙の媒体が完全になくなるということはないだろうが、電子版だとあの本の手に感じる質量、よく読んだのでぱっと開く箇所、手あかのしっかり付いた箇所、読みながら付箋を張った箇所、そういった読書の楽しみがなくなってしまうことになる。ここしばらくKindleでも「読書」はしているが、それでも紙媒体にはかなわないと思うことが多い。たしかにブログなんていう革命的なメディアがうまれることで、紙媒体の意味が従来とは変化しているのは分かる。だから棲み分けになって行くのかもしれない。

それにしても図書館から本が消えるのは哀しい。図書館のコンピュータで本を読む必然はないわけで、そうなると検索する作業が主体となるに違いない。書架の間をうろうろと回りながら、タイトルが目に留まれば手に取ってパラパラ読んでみる、といったこともできなくなるのだろうか。