yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『瞼に母』都若丸劇団@花園会館8月24日夜

『瞼母』、この「に」がずっと気になっていました。評判もとても良くて、観た人は「楽しかった!」と異口同音にほめるので、これはどうしても観なくてはと思いつつ、なかなか機会がなかった。やっと!観ることができました。そして評判通り、いやそれ以上に楽しいお芝居でした。

公演先が新開地を除いてへんぴなところが多く、今まで観る機会があまりなかったのが残念です。4月に新開地でみた折にも驚くほどの観客数だったのですが、花園会館も連日昼夜それぞれ300人近い観客数のようで、昨日は600人ということでした。25日(今日)が千秋楽なので、「夜の部の千秋楽」が昨晩ということもあって、ものすごい熱気でした。今月の公演、昼夜で演目、舞踊ショー内容をそれぞれ替えてのもので、ファンサービスのレベルも並みではなかった。昨晩はアンコールもあり観客も参加、居残ったあげくバスを乗り過ごしてしまい帰宅は真夜中になりました。

以前にもこのブログ記事に書いたのですが、観客の質がそろっています。お芝居好きのフツウの方々が多数です。もっとも昨晩は京都の粋筋と思われる上品な方や舞子さんもいましたが。そのお一人一人が若丸さん、劇団員さんを家族のように応援するのです。その雰囲気、私のようにここになじみのない者でも居心地がよく、その親しみやすさと伝統演劇なみの芸のレベルの高さとがうまくマッチしています。そういう大衆演劇の醍醐味を味わいたければこの劇団をみるべきでしょうね。

若丸さんのお人柄ももちろんそれに拍車をかけています。舞台での笑顔、ニセモノではないホンモノの笑顔です。「笑顔千両」といいますが、まさにそんな笑顔です。こういう役者さんの「地」をみれるというのが、大衆演劇ならではなのですが、でもその地がより観客を惹きつけるというのは(私のみる限り)あまりありません。むしろがっかりすることが多い中、若丸さんは数少ない例外のお一人です。だからこれほど人が集まってくるのでしょう。

上方喜劇の粋さを知りたければ、若丸さんの喜劇を観るに限ります。もちろん悲劇もすばらしいのですが、悲劇にも笑い(コミック・リリーフ)を入れるのが若丸流です。その笑いに無理がなく、ほのぼのと肌になじむ優しさがあります。(実際の舞台で観たことはないのですが映像でみる)藤山寛美さんの感じに近いかもしれません(そういえば都ひかるさんは藤山直美さんそっくりです。直美さんの舞台は2回観ていますので)。若丸さんの方が寛美さんよりも知的な感じがしますが。芝居はすべて若丸さんが立てられ、新作狂言も彼の脚本なんですよね。その数も半端ではなく、あらためて並外れた才能と感心します。

若丸さんのお芝居を観て感心するのが、その明瞭さです。『髑髏城の七人』をみて、今のいわゆる小劇場系の芝居に失望したところでしたので、この明瞭さがスゴイと思います。これは単純化ということではないのです。サブプロットやらサブテーマやらをいっぱいぶちこんで「どうだ、俺たちゃ賢いだろう」という体の芝居にはうんざりです。観客は何を求めてそういう格好をつけた「知的」ぶったものをみるのですかね。ワカラナイ。

それでお芝居の『瞼に母』ですが、もちろん本歌は『瞼の母』。でもパロディというよりまったく違ったお芝居でした。「母」は「父」に、「子が親のつれなさに泣く」というのではなく、その逆で、物語設定自体がすべて変えられていました。これを思いつくというのに若丸さんの諧謔精神、そしてもちろん才能の高さを窺い知ることができます。

脚本もそうですが、演技の面でも脱帽でした。特に幕が閉まってからの「向かいの屋根に雀が3羽いました。そして全部いなくなりました」という主人公、五郎やん(若丸さん)の台詞、絶妙だった!どっとお客さんたち笑いましたが、そのあとほろりとしたのではないでしょうか。この台詞、そしてなによりも間の取り方!「面白うてやがてかなしき」という喜劇のエッセンスが立ち上がってきました。これに比肩できる人は中村勘三郎丈くらいでしょうか。