yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

いのうえ歌舞伎『髑髏城の七人』@梅田芸術劇場メインホール8月20日

劇団☆新感線2011年夏興行ということで8月7日ー24日の公演である。

劇団のサイトからの紹介では以下の通りである。

作 :中島かずき
演出 :いのうえひでのり
出演 :小栗 旬 森山未來 早乙女太一 小池栄子 勝地 涼 仲 里依紗 高田聖子 粟根まこと 河野まさと 千葉哲也

噂で超がいくつも付くほどの人気だとは聞いていたが、そういうのをあんまり信用しないひねくれ者なので、今までみたことがなかった。宝塚も劇団四季も同様の理由から食指は動かないのだけれど、新感線に関しては斬新な試みが多いとの評判だし、若い人に圧倒的人気ともきいていたので、覚悟して出かけた。覚悟してというのはチケットが13500円もしたから。これで2階席である。劇場の造作が演劇用になっているので、観ることについてはそう不都合はなかったが、最近は大衆演劇の舞台と客席との近さに慣れてしまったので、まるで一枚煙幕がかかっているように舞台との遠さを感じてしまう。ストラットフォードアポンエイボンのロイヤルシェイクスピア劇場だってロンドンのバービカンだって大きな劇場ではあるけれど、ここまでではない。そう、先日中島美嘉コンサートのあった兵庫県立芸術文化センターの大ホールや大阪国際会議場メインホール並みの巨大さだった。

まるで七夕のように年に1、2回しか公演がないためもあってか連日満員御礼のようで、今日もメガ級会場が満員だった。2階席のメリットとしては、照明と舞台装置が非常によく分かったことだろう。観客席もよく見渡せた。観客は圧倒的に30代から40代の女性だった。

帰ってきてから新感線のサイトに入って確認したところ、どんぴしゃの劇団紹介文があった。

そのマンガ的な世界をコンサートばりの照明・音響を駆使して彩るド派手な舞台は小劇場界では他に類がなく、演劇という枠を越えて広く話題を集める。

照明は非常に凝っていて、効果的に使われていた。とくに天井からのスポットライトが何本も交差して人物、情景を照らし出す手法は有効だった。普通の舞台のように幕を使わないので、暗転することで「幕が閉じる」。暗転した間に舞台装置の移動をするのだが、これが無駄を省いた非常にシンプルな造りで、小劇場系の伝統を受け継いでいることが分かる。極限まで余計なものを削ぎ落とした舞台は、もちろん能舞台の模倣である。

音響は「ど派手」というよりポイントを押さえた効果的なものだった。中島美嘉コンサートの音響の方がコンサートだった分だけずっと「派手」だった。でも照明も音響もたしかにJ-POPのコンサートに近いのかもしれない。演劇をみているというより、むしろコンサートを聞いているという感じがした。でもそのわりには観客は大人しくて、立ち上がる人も声を出したり、拍手したりする人もあまり多くはなかった。おそらく禁止されているのだろう。これも大衆演劇とつい比べてしまった。大衆演劇はお芝居にしても舞踊ショーにしてももっと自由度が高い。

中島かずきさんのスクリプトは凝ったもので、これでもかこれでもかと趣向を凝らして観客を楽しませようとするものだった。演出もこの劇団らしくケレン味たっぷりで、観客サービス第一というのがよく分かった。台本は古今東西を問わず過去の文学作品のアリュージョンのコラージュとなっていた。紹介文のところにあるようにマンガ(アニメ)からの援用に満ち満ちていた。それもマンガ自体が過去の文学作品を取り入れたものが多いのだから当然だろう。『南総里見八犬伝』、「太平記』、『アーサー王物語』、『古事記』、そして『聖書』等々。マンガ/アニメでは宮崎駿の匂いがした。たとえば『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、そして『もののけ姫』等。日本のアニメ、マンガの本歌取りの手法が舞台にも波及しているのは当然といえば当然だけど、ちょっと驚いた。こういう点が大衆演劇とはちがっているのかもしれない。大衆演劇にも本歌取りはあるけれど、私の観た限りでいうと日本の古典や歌舞伎からのものがほとんどだから。

でも、でもなのである。これだけの凝りまくった舞台だった割には後をひかないのだ。観ているときは面白くてワクワクしているのだけど、帰り道で余韻が残っているかというと、答えは否なのである。「派手な舞台だったナ」という程度の感慨しか残らないのはなぜなんだろう。あまりに凝りすぎて焦点が定まっていなかったことがあるかもしれない。それ以上にあまりにも割り切れてしまう舞台だったことが原因だったような気がする。ハイライトを当てるのを一カ所に絞り込んで、すべてをそこに収斂させるような脚本、そして演出だったらこのような余韻の少ない「すっきりとした」感じにはならなかったのではないか。

ミュージカルと小劇場(それも動きの激しい)との融合から始まった新感線の成り立ちから鑑みると、それも当然かもしれない。ただ最近はドラマ性に重点を置くようになったということなので、やはりこの点は工夫の余地があると思う。

一つに焦点を合わせるとしたら、天魔王(森山未來)と蘭兵衛(早乙女太一)との信長を挟んでの三角関係がもっとも効果的だったのではないか。蘭兵衛は信長の愛人小姓の蘭丸の生まれ変わり、あるいはダブルということになっているようだから。そうすれば天魔王の、そして蘭丸の、さらにはそれを見届けざるを得なくなった主人公(捨之介)との間のパワーポリティックスがもっと際立ち、そこに今は亡き信長の野心、無念といったものがある種の必然として浮かび上がるだろう。そうして初めて、信長、秀吉、家康という歴史上の人物が、そして彼らが織りなす野心の悲劇が、観客にも切実なものとしてたち現れてくるのではないだろうか。いくらそれが政治が生み出した人間関係ではあっても、人間がつくりだす関係である以上、どこかに割り切れなさ、不気味さが残る。その割り切れなさ、不気味さを覗かせてくれるのが、舞台のような気がする。もちろん映画でも小説でもすぐれた文学作品はそうである。

それともう一つ残念だったのは、主役級の俳優たちの身体が「できていなかった」ということである。例外は早乙女太一さん一人だった。身体の訓練がいかに重要かということを分からせてくれる舞台だった。太一さんのみがそういう身体訓練を受けているというのが殺陣の場面でとくによく分かった。彼との殺陣なので他の人のあらが見えてしまう。他の人も一応それらしく動いているのではあるが、そこに何かが欠如していた。それは「余裕」という要素だったかもしれない。動くことにあまりにも必死なので(身体がそこまでできていないので)、観ている方ははらはらしてしまう。余裕がなければせっかくの殺陣が死んでしまう。鈴木忠志の利賀村塾では徹底した身体訓練が行われてきたが、それは身体を作っていなくては、何を演じても空振りになることが鈴木には分かっていたからである。

声もただ大きな声を出せば良いというものではない。エロキューションの訓練ができていない人が多かった。小栗旬さんも映画、テレビなどの映像ではエロキューションの問題はカバーできるのだろうが、舞台ではそうは行かない。これは身体訓練と同じくかなり大変なことではあるだろうけど、大舞台に立つ以上は意識的に鍛えてもらいたいと思った。小池栄子さん、仲里依紗さん然りである。お名前は分からないのだが刀匠役(多分高田聖子さん)の発声が優れていた。それに他のだれよりも圧倒的存在感があった。

演者の巧拙を問う場合、歌舞伎では声がもっとも重視される。それは人形浄瑠璃の大夫の語りでも同じである。声の訓練はまた身体の訓練でもある。今日の舞台はこの点がかなり残念だった。でもそれはこの劇団にかぎったことではないのかもしれない。いわゆる小劇場系の芝居をみるとがっかりするのがこの点だった。だから観に行かなくなってしまった。欧米の優れた役者たちはこういう訓練を経て生き残ってきた人たちである。舞台向けに訓練したことはそのまま映画、テレビ等の場でも通用するのだ。決してその逆ではない。