yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『秘密はうたう』@兵庫県立芸術文化センター中ホール 7月31日

風邪で熱があるにもかかわらず補講やら試験監督、おまけに毎日観劇に出歩いていたためかなかなか快癒せず、一週間経った今日やっと少しましになった。というわけで、さっそく西宮北口の芸術文化センターに英国の劇作家ノエル・カワードNoël Coward (1899-1973) の『秘密はうたう』(原題、A Song for Twilight)をみに行ってきた。

緊迫感に溢れた、そして最後は舞台に満ちた悲しみに共感する舞台だった。すばらしかった!

舞台はスイスにある高級ホテル。功成り名遂げた劇作家/小説家のヒューゴは元彼の秘書だったドイツ人の妻ヒルダとともに滞在している。ヒルダは今でも彼の秘書をして、ビジネスをとりしきっている。

そこへ30年も前に分かれた元恋人で売れない女優のカルロッタが訪ねてくるという。それを聞いてヒルダは心穏やかではない。ベッドから起きだしてきたヒューゴに皮肉をいう。それにまた毒のある皮肉で応酬するヒューゴ。二人の間になみなみならない緊張感があるのが観客側にも伝わってくる。ヒルダは二人に夕食を用意していると告げる。それがなんとカルロッタ好みのピンクのシャンパンつきのコースだった。

ヒルダは友人と食事をするといって外出しようとするが、そこへカルロッタがやってきて、二人の女が対峙する。慇懃な挨拶のあとヒルダは外出。二人きりになったヒューゴとカルロッタは互いに腹の探り合い合戦を開始する。あけすけに自分の整形手術の話、別れた男たちの話をするカルロッタにヒューゴは皮肉で応酬する。今や押しも押されもしない「大作家」になったヒューゴはあくまでもそのポスチュアを崩そうとはしない。負けじとやり返すカルロッタ。

応酬合戦のあと、カルロッタが切り出したのは、彼女が出版を予定している自伝の中にヒューゴからの手紙を入れても良いかという打診だった。もちろん断るヒューゴ。用向きがそういう話なら帰ってくれとカルロッタを促す。出て行く彼女はヒューゴに爆弾を投げつける。それはヒューゴが昔同性愛関係にあった今は亡きペリーに宛てたヒューゴの手紙を、彼女がペリーから貰い受けたという話だった。ここで観客にヒューゴの「秘密」が暴露されることになる。

第2幕はヒューゴが同じホテルに宿泊しているというカルロッタの部屋に電話をし、彼女を呼び出すところから始まる。カルロッタはピンクのシャンパンをウィイターに注文、杯を重ねてご機嫌である。ヒューゴは彼女に取引を申し込む。いくらで買い取ればいいのかと尋ねる。カルロッタはお金が目的ではないという。またもや昔を蒸し返しての非難の応酬がある。カルロッタはその手紙をヒューゴの伝記を書こうとしているハーバード大学の研究者に渡すという。もう60年代、同性愛なんてものは昔ほどのスキャンダルではないともいう。このあたり、観客にもカルロッタが手紙を「だし」にする真意が図りかねる。はたしてゆすりたかりなのか、単なる嫌がらせなのか。

二人が罵り合っているところへ友人との夕食からヒルダが帰宅する。お酒が入っていつもの彼女とは違いウキウキと楽しげである。険悪な空気が少し和らぐ。カルロッタに諍いの理由をきくヒルダ。何度もそれを遮るヒューゴ。そしてついに手紙へと話が及ぶ。その手紙はペリーからのものかと尋ねるヒルダ。驚くヒューゴとカルロッタに、ヒルダはその「秘密」はとっくの昔に知っていたと告げる。そしてその手紙を「買い取ろう」とカルロッタに持ちかける。カルロッタはまたしてもこの申し出を撥ね付ける。カルロッタが求めていたのはそういう取引ではなく、昔ヒューゴによってずたずたにされた誇りを回復したいのだと、ヒルダは見抜いていた。そう静かに問うヒルダに、カルロッタは頷く。二人の女性の間に共感の波がおきる。「同盟の絆」が生まれる瞬間である。

ヒルダの机の上にペリーから譲り受けた手紙を置き、部屋を去るカルロッタ。そのカルロッタをヒルダは戸口まで送って行く。ヒルダが部屋に戻ると、ヒューゴは自分が昔書いたペリーへの手紙を読みながら泣いていた。深い悲しみに満ちた間があり幕。

サスペンスに満ちた第1幕から、ヒルダが帰宅してからの第2幕のクライマックス---ヒルダの告白---というそのつながりが息をもつかせないテンポで畳み込まれ、観客をぐいぐいと引き込みとらえて離さない。しかもヒルダがお見通しだったというのは、すでに彼女が二人のために用意した晩餐に暗示されていたのだ。彼女は公的にだけではなく私的にもヒューゴの秘書だったのだから、すべてを知っていても不思議ではない。知っていて、気難しいヒューゴの毒舌につきあい、それを見守ってきていたことが分かる。ここに原題の A Song at Twilight が甦ってくる。もう若くはなく人生の終末を迎えつつある二人の老夫婦。気ままで傲慢、そして皮肉屋の夫を見守りながら、従順というのではなく適度に応酬しながらも、子供っぽさの残る夫のプライドをかばいながらよりそっている妻の姿は感動的である。彼女のめげないアグレッシブな態度も魅力的である。こういう妻は日本にはなかなかいないと思う。残念だけど。日本だとこういう場合「母」になってしまうから。文化が違うから仕方ないか。

ヒューゴを演じた村井国夫さん、ヒルダ役の三田和代さん、そしてカルロッタを演じた保坂知寿さん、さらにウェイターを演じた神農直隆さん、それぞれに説得力のある演技だった。村井さん、三田さんはともに俳優座養成所の同期だそうで、俳優座の力量をあらためて感じた。保坂さんのカルロッタ、蓮っ葉な外見や振る舞いは深く傷ついた内面を隠す隠れ蓑になっているという難しい役どころをみごとに現出されていた。かわいらしくも哀しい女性だった。彼女は劇団四季出身だそうである。村井さんは子供っぽさ、弱さをその傲慢な態度で覆い隠しているという役を上手く演じていた。そして、三田さん!第1幕での取り澄ました事務的な初老の女性が第2幕では厳しい外面の中に慈愛に満ちた、そして洞察力を兼ね備えた知的な女性を説得力十分に演じきった。ただただ脱帽。というより感動!そしてなによりも二人の女が一人の男を挟んで最後に理解しあうという場面、涙がとまらなかった。

演出はマキノノゾミさん、劇団M.O.P の主催者だそうである。ウェイター役の神農直隆さんはこの所属である。この演出には絶大な拍手を送りたい。今までにみた「翻訳劇」でもっとも違和感がなかった。もちろん翻訳がこなれていたということもあるだろうし、役者が凄腕ぞろいだったということもあるだろうが、やはり演出の力が大きいと思う。新劇に特有の大仰な台詞回し、動作が皆目なかったのも、違和感のなさに貢献しているのは間違いない。あの大仰さには白けてしまうから。

違和感がないというけれど、「日本で舞台に乗せる」という事実を全く認識していなかったわけはない。だからそぐわないところは捨象しつつより効果的な演出を心がけたにちがいない。

でもその「日本化」が逆に本国、英国の舞台そのものに近いのだ。途中からまるでウェストエンドの劇場にいるような気分になった。ウェストエンドの決してきれいとはいいがたい雑然とした舞台、今日の舞台よりひとまわり小さい舞台での役者たちの様子が浮かんできて、今日の舞台に重なった。

この作品はカワード晩年 (1966) の三部作、Suite in Three Keys の一つであり(他の二つは、Shadows of the Evening; Come into the Garden, Maud )、カワードの従来の作品とはかなり毛色が違うらしい。そういえば以前に彼のHay Feverをロンドンでみたことがあるが、これは喜劇だった。こんなに重いテーマを扱ってはいなかった。

翻訳はこなれていて、台詞に違和感がまったくなかった。ひとつ気になったのは劇中に何回か出てきた「本能と法律のあいだで苦しむ」という台詞である。これはちょっと会話中の台詞としてはそぐわないのではないかと思う。フロイト的なあるいはラカン的な精神分析学的なものをどうしても想像してしまうから。もっとジェネラルなコンテクストでつかっている言葉なら、別の言葉に置き換えた方が良いのではと思った。

欧米の演劇に共通していえるのは、台詞劇であることである。台詞の応酬によって成り立っている。それもこの劇のようにウィットと機智に満ちた、そして毒のある皮肉も交えた台詞のめまぐるしい応酬である。この点が日本の劇に移し替えると違和感を感じる最大の点だろう。しかし今回の演劇はあくまでも「西欧」のものであるという基調を崩すことがなかったのが成功した理由だとおもう。ヘンに日本のにおいをもちこまなかったところがよかった。

場面はあくまでもホテルの一室、それもルイ14世のヴェルサイユ宮殿、鏡の間(?)を思わせるような豪華な内装に調度の部屋である。正面ドアを開けると向こうが戸口へと向かう廊下になっているという造りである。この舞台装置は凝っていると同時に、ヒューゴ夫妻がどこか浮き上がっている、しっくりきていない雰囲気を出すのにも貢献していた。

これだけの質のものを日本でみれるとは、全く期待していなかったので驚いたと同時に感銘を受けた。ロンドンでもおなじ演目をみてみたいけど、もっと「泥臭い」感じがするのではと思う。日本の舞台で演じられる「西欧の演劇」という虚構化があるので、この豪華な舞台にもかかわらずシンプリファイされた「能」を連想してしまった。