yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

七月大歌舞伎@大阪松竹座『江戸唄情節』7月23日昼

一般には『三味線やくざ』として知られている狂言で、1939年(昭和14年)歌舞伎座での初演である。あの伝説の15代目市村羽左衛門と新派の河合武雄が初めて共演するのに当たり、川口松太郎が書き下ろした(公演番附けより)。

『三味線やくざ』というタイトルはまさに大衆演劇を思わせるものである。三味線とやくざの組み合わせなんて、なんとも大衆演劇のツボぴたりとはまりすぎだ。ただ、私の知る限りではこの演目を大衆演劇でみたことがない。今ネットで検索したところ、橘劇団、劇団飛翔での記録が残っている。でも残念ながら、どちらの劇団でもこの狂言にはあたらなかった。

川口松太郎は新派の台本を1932年から書いていたので、この狂言にも新派のにおいがぷんぷんする。また新派は文字通り「New School」、つまり旧劇である歌舞伎に対しての呼称である。だからこれまた歌舞伎(大芝居)から派生してきた旅芝居(中芝居)との共通点も当然ながら多々みられる。

この狂言は、たとえば真山青果の作品と比べるとよく分かるが、歌舞伎の新しい形というよりもむしろ今までになかった新しいタイプの狂言である。その点では『男の花道』などと同類だろう。川口松太郎の「歌舞伎に新種のトレンドを導入する」という並々ならない意気込みが感じられる。歌舞伎の伝統的型を破るという強い意思のようなものも感じられる。そして、川口松太郎の「どんなもんだい」といった得意げな様子も伝わってくる。彼の思惑通り、歌舞伎での初演は大当たりをとり、1950年には花柳章太郎、初代水谷八重子のコンビで新派でも演じられた。

今回の片岡仁左衛門の杵屋弥市役はお父さまの13代目仁左衛門の後を継いだものである。13代目が1953年に道頓堀の中蓙で弥市を演じて好評を博したことを受けているのだ。13代目も三味線をひいてみせたそうである。今回の公演で仁左衛門は「連獅子」のバックでの大薩摩の演奏で会場を魅了した。ここのところ、まさに『男の花道』同様に劇中劇の手法が使われているわけで、観客は劇の中の劇で演奏される大薩摩を聴くことになる。この複層的な舞台設定は極めて実験的であり、当時の観客には「衝撃的」だったと思われる。私が観た日の観客も仁左衛門の演奏が「決まる」かどうか、まるで劇の中の芝居小屋、村山座の観客になったかのように息をつめ、固唾を呑んで聞き入っていた。仁左衛門さん、さぞ緊張したことだろう。

筋は『残菊物語』とよく似ている。とくに最後。瀕死の状態で村山座に運び込まれた弥市の恋女房、お米が夫の演奏を聴いたあとで息絶えるという設定は、『残菊物語』を思わせる。元やくざの三味線弾きが世間に背いて芸者と一緒になったがために苦労し、やっと三味線弾きとして日の目をみるときには妻は他界してしまうという設定ーー体制からの離脱、そして妻の犠牲の上での体制への復帰ーーも共通している。

この日の収穫は観客の反応がよく分かったことだった。この歌舞伎としては斬新な演目に対して、総じて好意的だった。歌舞伎の決まった形に新しいトレンドを導入することに対しては、案外抵抗は少ないのかもしれない。新しいトレンドに挑戦する狂言作者が出てくればと切に思う。