yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

脇田晴子著『女性芸能の源流』

今日からマンション全体の給排水管の大規模修理が始まり、最上階の私の部屋の排水口を9時−5時で1週間使うとのことで、寝室になっている部屋の整理を昨日半日がかりでやった。そのとき、寝室においている本棚からこの本を見つけ出した。加藤秀俊さんの『メディアの発生―聖と俗をむすぶもの』の中でも言及されていたので、ぜひ読みたいと、夏休みになったら買い求めるつもりでいた。なんということ、すでに持っていたとは。日本語の本でもこの調子で、英文の批評理論の専門書など2冊もっているのもたくさんある。健忘ぶりに我ながらあきれてしまう。

もっとあきれたのが、内容をほとんど覚えていないことだった。書き込みもないので、一応目を通したもののそれほど興味を惹かれなかったということだろう。10年前の版なので、おそらくその頃研究していたジェンダー問題の関連で買い求めたに違いない。今の興味は芸能の発生なので、その観点からはこれはめったにないほど魅力的な内容である。女性芸能者が伝統芸能形成に果たした役割を詳細に調べてある。ジェンダーの問題は当然含まれている、というよりむしろ「女であることによって、可能になった芸能」という視点から芸能史を洗い直しているので、「ジェンダー」が軸になっている。

芸能史を女性を軸にして編み直す試みであるが、芸能の根源をたどれば神楽に行き着くという。後白河の『梁塵秘抄』の中でも神楽から始まる伝統芸能の流れの中に今様が位置づけられている。そもそも芸能は人間の娯楽のために発生したのではなく、死者の鎮魂の祀りとして奉納されたものだった。つまり、エンターテインメントというより、宗教的な色彩が濃かったのである。最も古い起源は『古事記』にのっている天細女命の天の岩戸の踊りだったそうで、そうなると芸能の発生は女性が担ったことになる。それが女系として継承され、中世には(能の「三輪」の元になった)三輪山説話になったという。この場合ももちろん女性がメディア(巫)の役割を果たしているから、宗教性はきわめて濃かったといえるだろう。古代の巫女は中世には三輪伝説にあるように「女神」へと形を変えた。

男性支配の社会ーーそれは仏教を奉ずる社会だったーーが堅牢になるにしたがってそこから排除されていった部分に神が復活してくるのだと、著者の脇田さんは主張する。これはもちろん中世になって家が社会制度の基本単位となってきたことと関係していたという。古代から中世へと続く芸能の流れをたどることは、そのまま日本の制度・体制 (institution) の形成とその発展と、そしてその制度から漏れてしまった部分を巫女や白拍子、そして傀儡子といった女性芸能者が引き受けていった過程をたどることにもなる。

体制側に組み込まれなかった芸能が連綿と受け継がれて行くさまはこの本の目次をみるだけで一目瞭然である。

第1章:巫女
第2章:傀儡女
第3章:遊女
第4章:白拍子女
第5章:曲舞女
第6章:瞽女と女芸人

初めは宗教的なものとして発生した芸能がやがては人間のための娯楽となったというのも興味深い。また、俗謡である今様が大きな役割を果たしたという論点も興味深い。今『梁塵秘抄』を読んでいるがその中の歌があまりにもリアルなので、つい現在進行形の芸能、大衆演劇の中の舞踊や芝居と重ねてしまう。実際に今様が生まれ、発展した過程はそのまま現代の芸能の発展の形態と相似形であるように思えて仕方がない。