yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

春陽座@明生座7月13日昼 澤村心座長主演 長谷川伸『瞼の母』

今までにみた『瞼の母』中もっとも説得力のある舞台だった!というより、今までみたものとは異質だった。ここ数日それが何だったかを考えている。長谷川伸の原作も読んでみるつもりである。というのも、春陽座の『瞼の母』をみて、ひょっとしたら私が今までみてきた『瞼の母』が原作を「お涙頂戴」の安っぽいものに変えてしまっていたのではないかと思ったからである。

大衆演劇の十八番というだけあって、ほとんどの劇団がこの芝居はレパートリに入っていると思う。私はこういう類いの「クサイ」芝居が好きではないので、演目が長谷川伸ものだと分かっている場合は、その日は外すことにしていた。といっても、知らずに行って、「しまった」と思うこともあり、仕方なくみることはみるのだが、予想通り「えっ、なにこのクササ!」とがっかりするのが常だった。九州系の劇団がまさにそれだった。私が劇団花吹雪を好きなのは、この芝居を演らないからなのだ。もし舞台に乗せても九州系とは違ったように演じるのは間違いない。今までにみた『瞼の母』、突っ込みどころマンサイだった。そういう薄っぺらい芝居をするから大衆演劇が敬遠されるのではないかと思う。観客はこういうクサイ芝居を好む善良なる老人ばかりではないのですよ。

春陽座がすごいのはこれを現代劇、つまり心理劇として演じたところである。澤村心さんのすばらしさは新開地劇場でみたときによく分かった。だから心座長が主演のお芝居は逃すまいと、今月の明生座の公演のスケジュールは綿密にチェックしている。

澤村心さんの番場の忠太郎が今は「水熊」という老舗料亭の女将に治まっている母のおはま(真緒さん)と対峙する場面、二人の駆け引きが息もつかせぬ緊迫感があった。まさに心理劇である。長い間生き別れになっていた実の母かもしれないおはまに、初めはおずおずと、しかもどこかうれしげ、懐かしげに話しかける忠太郎。この演技が真に迫っていて、忠太郎にアイデンティファイしてしまっている自分がいた。そんなことは今までになかったのに。おはまのけんもほろろの拒否の態度に、みている私自身が深く傷ついた。これも今までなかったことである。真緒さんの演技も特筆ものである。真緒さんも現代的な演技をする点で他の役者とは違った感性の人だと分かる。大衆演劇(旅芝居)の範疇からは外れているのだ。

母の拒否に傷ついた忠太郎、それでも自分の面目、プライドをかけて自身を律するところ、それまでの彼の人生の苦難の数々が、そしてそれを乗り越えてきた彼の強さ、潔さが一挙に目の前に広がる観があった。それをみると、みている側は頼まれなくても彼に深く同化、同情してしまう。その嘆きの深さがまるで自分のことのように実感できる。ここが私にとっては初めての経験だった。この場面、いままでは例外なく白けながらみていたから。

今日(7月17日)は心座長主演の『夢の中の父子』という演し物だったのだが、これもある意味手あかのついた芝居だったのを、心座長は説得力のある心理劇として、観客の前の呈示してみせた。すばらしかった。これについては別稿にする。

いったい、今までの旅芝居のやり方を踏襲するだけでは、新しい観客層を獲得するのは難しいように思う。大衆演劇は現代の観客の嗜好に合わせた演目、演出を考えて行かなければならないところに来ていると思う。体制化した歌舞伎が失ったイキのよさを全面に出して、新しい地平をきり拓いて行って欲しい。