yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ミヒャエル・ハネケ監督 『隠された記憶』

この映画をみたのはたしか2006年、アメリカのフィラデルフィアの「Ritz5」という映画館でだった。カンヌで批評家賞を取ったとは聞いていたので、それなら間違いないだろうと思って出かけたのだ。私自身は勤務先から1年間のサバティカルをもらって母校のペンシルベニア大学で教えているときだった。映画は友人とみることが多かったのに、なぜかこの作品は一人で観た。そして一人で観てよかったと思った。咀嚼するのに時間がかかる映画があるとしたら、これはまさにそれで、それも一人で咀嚼することを求めるような緊張感のある映画だった。

なんとも不思議な映画で、不完全燃焼のようなふっきれなさが残る。それも「余韻に浸る」といった悠長なものではなく、じわじわと真綿で首を締め付けられるような圧迫感と、苦い薬を飲んだ後のような後味の悪さに苛まれるような類いものである。

もちろんこれを観たときは、べつに構えたりしないで、ふつうに映画をみるときのやり方みた。ところが、見終わったあと、「いったいあれは何だったのか」と訝るシーンが次から次へと浮かんできて、落ち着かなくなった。見終わったあとにそれほどまでに不安定な気分になったのは初めての経験だった。フランス語の映画で、英語字幕が付いていた。だから私が字幕をきちんとみることができなかったせいかとも思ったのだが、どうもそれではないみたいだった。内容が何重にも入れ子構造になっているので、よけいに分かりづらい。

テーマは「罪悪感(トラウマ」)と「記憶」ということになると思う。主人公がじわじわと追いつめられて行くところなんて、下手なスリラー顔負けだった。主人公が追いつめられるのに連動して、彼にアイデンティファイしている観客も不安にかられて行く。その不安のクライマックスシーンが主人公が「犯人」と考えていた男の自殺である。暴力的な、なんどもおぞましいシーンである。

見終わったあとで、なんとも不完全燃焼だったので、もう一回みようかとも考えたが、躊躇し、結局やめた。ネットで調べて、最後のシーン(もうすでにクレジットが出てきている)にヒントが隠されていたことが分かった。それでももう一度みることは諦めた。というのも、二回目以降にみる場合、どの場面もその「隠されていた」シーンと関連づけてみてしまうと思ったからだった。