yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

春陽座@新開地劇場 6月14日昼

この日、三河家諒さんがゲストで、お芝居は通し狂言『拝領妻始末』でした。勤務先から駆けつけたものの約40分遅刻で、ほぼ半分が終わっていました。残念。

丁度お市と与五郎の祝言の場(第3場)でした。

笹原与五郎(沢田ひろしさん)という許嫁がありながら藩主松平正容(澤村かずまさん)の側室になった市(三河家諒さん)。なぜ正容から暇を出されて与五郎のもとに来たのかを、市は連綿と訴える。藩命によって嫌々正容の側室になり、それでも一子菊千代を生んだ。その間に正容は新しい側女、お玉を作っていた。帰ってきた市をみて、そのお玉は勝ち誇ったようにあざ笑う。悲惨な運命を受け入れた市はそれを見て逆上し、お玉の髪の毛をとって引きずり回したのである。それで与五郎に下命されたのだった。しかし与五郎は満足だった。やっと元の許嫁と一緒になれたのだから。

2年経って、二人の間にはとみという娘も授かった。そこへ藩主正容から市を返せとの下命があった。世継ぎの嫡男が死に、市の生んだ菊千代が世継ぎに決まったので、帰ってくるようにというお達しだった。

親族会議では笹原の家のため、市は正容のもとにかえるべきだとうい意見が大勢だった。しかし与五郎は市を返す気はなかったし、市にもまったくその気はなかった。与五郎の父、伊三郎(澤村新吾さん)は婿養子で普段は妻のすが(北條真緒さん)に頭があがらないが、この時ばかりは与五郎の肩をもった。怒るすがと親族。市が城に戻らない限り笹原の家がとりつぶしになることは間違いないという。与五郎の父、笹原の当主伊三郎はあくまでも与五郎と市の肩をもつ。

そうこうするうちに、市は病気になった菊千代の病気見舞いということで城に召し上げられる。2ヶ月が経過。市と与五郎の娘、とみはきよ(澤村かなさん)という娘が面倒をみている。

明け方、上意討ちの一隊が笹原家を襲った。その直前に伊三郎は自刃した。市にとみをあわせようとしたきよは殺されてしまう。与五郎は籠に乗っていた市を連れ出す。そのとき、市の兄(澤村心さん)がとみを「りっぱに育てる」と約束して連れ出してくれる。上意討ちの一隊に抵抗する二人。しかし遂に敵刃に倒れる。降りしきる雪の中、果てて行く二人の顔には喜びの表情があった。

Wiki で調べてみると、映画版とはかなり内容が異なっていました。なによりも映画では主人公は三船敏郎が演じる与五郎ではなく伊三郎でした。また、映画では市の城へ上がる前の許嫁は与五郎ではなく別の侍でした。さらに、「伊三郎の最期」もまったく違っていました。映画では伊三郎が最後まで上意討ちの一隊と狂ったように闘う設定になっています。藩命ということで息子に無理に拝領妻を押し付けた負い目、加えて養子の負い目、そいういった鬱屈した感情の反動としての怒り、彼はそんな感情の発露として、狂気のように上意討ちの一隊に立ち向かうのです。

沢田ひろしさんは与五郎をそつなく演じられました。お上手なのは以前伍代劇団へのゲストの際に確認していました(ブログにしています)ので、驚きはしませんでした。そして!なんといってもハイライトは三河家諒さんの市でした。細かい感情の襞を表現するのに彼女の右に出る女優さんはいないと思います。すばらしかった。最後の二人で死に行く場面、藤十郎丈の『曾根崎心中』のお初ばりでした。このお芝居は女性が演じる方が良いと思った瞬間でした。儚さ、脆さ、そしてその中にある強靭さを演じるのなら、女性の方が観客をナットクさせる「存在感」があるように思います。演じるというより、役柄がそのまま中に入り込んでいて、それが演技となってでるのです。場合によっては確かにそれが障碍になることもあり、男性が演じる方が(役との間に距離があるため)より客観的な描写に優れることも多いのですが、今回の場合は女性の諒さんには「市」を生きているような存在感がありました。

ただ、伊三郎を主人公にした映画とはテーマが違っているのではないかと思います。市の役の重みがあるのは、こちらの芝居の方ですし、だからこそ力のある女優さんが芝居には求められたのです。映画版では市の役割はそう重要ではないのでは。というのも映画版では与五郎を代理とする伊三郎と、領主という封建社会の代表者との対等な対峙、対決がテーマだったのですから。女性がその意味(価値)によらず、<女>というシンボルとして交換されるという封建社会にあっては、女性は交換されることによって初めて意味をもたされるわけです。つまり、その女性自身の感情の中身を問うなんてことはありえないのです。だから市にそして彼女との関係に何かしらの「意味」(愛なんてのはまさに意味ですから)を見出そうとした伊三郎、そしてそれを現実化した与五郎はそのことだけで既にルールを破っているのです。そう考えるなら、映画版の方がテーマに即しているといえるかもしれません。だからこそ、伊三郎は切腹をしたりなどせず、あくまでも上意討ちの使者たちと剣を交え闘い抜くのです。

映画をみていないので判断は難しいのですが、テーマ的には伊三郎を主人公にした方がインパクトが強かったのではないでしょうか。