yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『喧嘩屋五郎兵衛』をジジェクで読む

先日ある劇団で大衆演劇ではおなじみの『喧嘩屋五郎兵衛』をみた。そしてかなりがっかりした。理由は、肝心なところが換骨奪胎されていたからである。主演の座長が弱冠16歳というのでは期待するのは酷なのかもしれないけど。

まず一つ目の問題は五郎兵衛の兄の朝比奈が登場しなかったことである。次に五郎兵衛一家の三下の亥之介がその劇団では一家にわらじを脱いだ旅人ということになっていた点である。もっとびっくりしたのは、狂言回し役の八百屋は登場せず、そのかわり五郎兵衛に縁談を持ってくるのが、亥之助を五郎兵衛と早とちりした娘の父の八百屋ということになっていた点だった。劇団員の数が少ないので大変な面はあるのは分かるのだが、これじゃ全く別の芝居になってしまう。もとの『喧嘩屋五郎兵衛』中の五郎兵衛がその「狂気と死」で到達する「崇高」が観客には伝わらない。

最後の場面も「五郎兵衛の単なる狂気が事件の発端」という解釈からか、五郎兵衛が娘とその父の八百屋、そして亥之介を惨殺するところで終わる。ここまでくると、「それはないんじゃない!」と、あやうく叫びそうになった。大衆演劇にも「想い人を惨殺する」という『伊勢音頭』もどきの演目がない訳ではないけれど(例えば『恋慕の闇』)、それだと『喧嘩屋五郎兵衛』という出し物として観客に提示するのは、かなり問題があると思う。『喧嘩屋五郎兵衛』が『喧嘩屋五郎兵衛』たる所以は単なるサディズムとは違ったところにあるからである。

ジジェク流ラカン的精神分析解釈を施せば、五郎兵衛、朝比奈の関係はまさにギリシア悲劇、ソポクレスの『アンティゴネー』中のアンティゴネー、イスメーネーの関係そのもの、そしてサド作『ジュスティーヌ』中のジュスティーヌと妹ジュリエットとの関係にも重なっている。

五郎兵衛は(会ったことを思い出せないほど覚えていない)お嬢さん(対象)への狂気じみた固執ゆえに、そしてその固執が死に至ることで「崇高」の域に到達するのである。彼は一般の目からみると奇怪で非合理的である。とうてい観客の同情をかき立てる人物ではない。顔の火傷の傷跡は彼がそういう奇怪な行動を取らざるを得なかった一つの理由として提示されるが、それでもなぜ彼があれほどにまでお嬢さんに固執するのかは理解を超えている。プライドの問題と捉えるにも腑に落ちない。それにひきかえ兄の朝比奈は思いやりのある懐の深い人物である。彼の弟への深い情愛は観客にしっかりと伝わってくる。常に弟のことを思うその優しさに観客は容易く同化できる。彼の穏当さは五郎兵衛の奇怪さとは際立った対照をなしている。彼は亥之介の立場を理解しまた同情もしているきわめて人間的な人物である。

五郎兵衛は限界まで突っ走る。決して自分の欲望を諦めない。「死の欲動」に憑かれ、驚くほど冷酷になり、日常的な感情、思慮、恐怖の環の外に出てしまう。ここまでくると観客には彼が欲しているのが一体何なのかが分からなくなる。単に顔の火傷の痕で彼がそうなったとは思えなくなるのだ。彼は観客の同化を一切拒んでいるのである。快感の限界にまで、そしてそれを超える点まで「享楽」(jouissance) を追求する。それは亥之介を道づれにした彼の死にによって完結するまで終わらない。否、彼の死によっても終わらないのかもしれない。観客は単純な「同情」「理解」を拒む五郎兵衛の理不尽さを前にしてただ呆然と立ちすくむだけである。そこを救うのが「神官」としての朝比奈であり、五郎兵衛という荒ぶる「神」を祠におさめることで、カタルシスをもたらす役を全うさせる。