yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能「道成寺」と河野多恵子の「鉄の魚」

今朝のNHK、「芸能百花撩乱」は能がテーマだった。NHKサイトの「番組内容」は以下のようになっている。

ぶっちぎり!能の鑑賞入門。女優・南野陽子が自ら面をかけ、舞うなど体験しながら能の魅力を分かり易くお伝えする。代表作「道成寺」「八島」「羽衣」の見所もイッキ見せ!

「道成寺」は残念ながら実演をみていない。でもあの伝説の桜間道雄さんの「道成寺」は録画で全篇みた。武智鉄二が絶賛していたものだったので、期待に胸を踊らせてみた。でももうひとつぴんとこなかった。最後の「鐘入り」は確かにドラマチックだとは思ったが、武智がいうほど衝撃的なものとは感じなかった。武智の弁だとこの「鐘入り」は演者にとっては「命がけ」だそうで、タイミングを間違えると失神してしまうこともあるという。衝撃的ではなかったのは、どこか「失神」を期待していたからかもしれない(スミマセン)。

今日のシテはこの番組の解説者でもある観世喜之さんだった。この方、分かりやくツボを心得た解説の仕方が特徴的で、能の演者というよりも大学の先生という感じだった。こういう落ち着いた方でないと、視聴者に「親切な」解説はできないですよね。

歌舞伎の「道成寺」は能を踏まえながらも、歌舞伎らしくうんと誇張して、ドラマチックな構成になっている。だから最初に歌舞伎でみてしまうと、能の「道成寺」はいささかもの足らなくうつるかもしれない。私の場合も多分にそれだったように思う。

ペンシルバニア大学の博士課程にいたとき、学部生レベルの日本文学コースのクラスで河野多恵子の「鉄の魚」("Iron Fish")を読んだ。河野多恵子も田村俊子にもアメリカで初めて「出逢った」。なにか思い込みというか抵抗感というかためらいがあって、日本にいる時は女性作家のものをあまり読まなかった。アメリカで、しかも英語訳で日本の女性作家の出逢うというのは、なんとも皮肉ではある。単に私が狭量だっただけの話なのだが。

「鉄の魚」は短編だが、河野多恵子の作品らしく完成度が高く、彼女の日本の伝統芸能への造詣の深さが瞬時に分かる作品だった。この作品が能の「道成寺」を下敷きにしているのは明らかだった。ここには魚雷(「回天」といったそうである)に乗って戦死した夫をもつ女性が出てくる。戦後再婚した女性は友人と一緒に魚雷を展示している資料館を訪れ、その資料館でこっそりと一晩を過ごす。翌朝心配して待っている友の前に現れた彼女は、一晩中魚雷の中に入って亡き前夫を偲んだのだという。この魚雷が道成寺の鐘のアナロジーになっていて、愛するものを奪われた蛇体の怨念が、そのまま夫を理不尽に戦争に奪われた女性の中にも存在することがほのめかされている。

女性の情念、怨念を描く能作品は多いけれど、「道成寺」は「葵上」とならんで女の情念を描いた最高傑作であるのは間違いない。三島ももちろんこれらをもとにして「近代能楽集」を書いているが、情念を描ききるという点では女性作家の方に軍杯が上がるような気がするのは、やっぱり私が女だからかもしれない