yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

そろそろなんとかしなくては

大衆文化、ポップカルチャーというテーマで本を書こうと思って久しい。英語で書こうと思っていたのに頓挫している。アニメについては英語論文を何本かは書いたけれど、それだって2年近く前である。

本を書くとしたら、大衆演劇により焦点を合わせたものにしたい。アニメは世界レベルで認知されているけれど、大衆演劇はほとんど知られていないから。歌舞伎にしても日本人が考えているほど、海外で知られている訳ではない。知られているとしたら、写楽の役者絵にあるようなものとしてであって、演劇としてではない。歌舞伎についての出版物も限られている。もちろん、海外の研究者で歌舞伎論の優れた論考を出している研究者もいるけれど、彼らのほとんどが旧世代に属する人たちで、最近の若い研究者には目立った人がいないように思う。

大衆演劇に至っては、論文すらみたことはない。日本でもそうだから、海外にそれを期待するのがどだい無理だろう。でもとても残念に思っている。日本の芸能、それも大衆から生まれてきたものの認知度が低すぎる。

芸能が床の間に飾っておくものとして存在するのなら、それは芸能の芸能たる所以をすでに失っている。例が適当ではないかもしれないが、いまや「高踏」の代表格になっている能でも、その発生当時は庶民のものだった。室町幕府、その将軍というパトロンを得て始めて、芸能としての存続を許されたのである。最近の例では明治以降の歌舞伎が政府や松竹のサポートのもとに存続している事実が挙げられるだろう。

芸能の担い手は大衆であり、武家や貴族ではない。その伝でゆくと、もちろんアニメもマンガもまさに大衆発の芸能の一つなのだ。だから、アニメやマンガといったメディアと大衆演劇との共通点は思った以上にある。どちらも大衆発の、大衆が担った。大衆のためのエンターテインメントだから。

英語で書くところがかなりのハードルになるのは間違いない。英語圏の研究者なみに英語を書くには、それこそ十代から英語環境に身を置いていないと無理だから。ここが私のいちばん口惜しいところである。アメリカの大学院にいるとき、どれほど歯ぎしりしたことか。

大衆演劇は日本でよりも海外での方が評価されるのではないかと思っている。アニメ、マンガがそうだったように。海外の人が歌舞伎を賞賛するなら、当然大衆演劇をもっとアプリシエイトするに違いない。火傷するほどホットなものなのだから。だから英語で書かなくては意味がないのだ。一生のプロジェクトになるだろうけど、できるだけ早くめどをつけたい。