yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

演技者と役柄の距離

西宮ガーデンズに入っている映画館での『わたしを離さないで』の上映はすでに終了していた。残念なようなほっとしたような複雑な思いである。

公式サイトに入ると映画中のシーン、たぶん予告編が流れているが、そのどれもがあの箇所だと分かる重要なものになっている。映像の力はやっぱり強烈で、原作を読み直すときっとKath、Tommy、Ruthを演じた役者さんたちの像がかぶってしまうに違いない。ほんの一瞬の予告編での一瞥でも影響を受けてしまっているから。

CottageのみんなでRuthのpossible (モデルになった人)を探しに行った先で、その人が働いている店の中を覗き込む三人の様子、Ruthの言葉に傷ついたKath の表情、Miss Emilyを訪ねた帰りの道中でのTommyの感情の爆発、最後になるであろう4回目の臓器移植を行うTommyが帰ってゆくKathに手を振るシーン、そしてなによりも、三人で見た船の残骸を二人亡き後Norfolkへひとり見に行ったRuthの様子、そういったものがすべて走馬灯のように予告編に流れている。

観ていないので断言するのは無責任かもしれないけど、映画としても成功しているように思う。あれほど生き生きとしたシーン群で構成されているのだから。また、重要人物を演じた役者さんたちが原作のイメージと近いのにも驚いている。とくにKathを演じている女優さん、キャリー・ハンナ・マリガン(Carey Hannah Mulligan)がすばらしい。非常に冷静で醒めた目をもちながら、その実繊細という原作のRuthのイメージに近い。どこかあどけなさを残した表情にも見入ってしまう。

でも、このなんとも魅力的なKathを演じたために彼女自身のこれからの俳優人生に影響は及ばないのだろうか。心配してしまう。私のもっとも好きないくつかの映画の中で主人公を演じた俳優たちがそれ以降役者としてのキャリアで成功しているとはいい難いから。

『ブロークバック・マウンテン』(2004)のヒース・レジャー(Heath Andrew Ledger)は映画の4年後に急逝した。『アナザー・カントリー』(1983)のルパート・エヴェレット(Rupert Everett)は俳優としての第一線からは退いている。また、『ピクニックアットハンギングロック』(1975)でなぞめいた少女を演じたアン・ランバート(Anne-Louise Lamber)も俳優を辞めている。

役柄が強烈な場合、演じているうちにその中に入り込んでしまい、それが実生活に影響してしまうのではないだろうか。演じるというのは常にそういう魔の部分と共生してゆくことのように思う。演技の上で成功すれば成功するだけ、演じている役と意識している自身との間の境界があいまいになるのではないか。そこが演じることのとてつもない魅力であり、魔力であるだろう。感性の豊かな人でないと(表現者・演技者として)魅力的な人物を描出するのに成功しないだろう。でも豊かであればあるだけ、演じている人物の魅力にはまってしまう、つまりシンクロする度合いが高くなってしまう。

さきほど挙げた役者さんたちはみんなそういう感性の豊かな、繊細な神経をもった人たちだったように思う。それゆえ、亡くなってしまうか、俳優業を断つ以外の方法で自分自身を客観化するのが不可能だったのではないだろうか。

『わたしを離さないで』の予告編でみるキャリー・ハンナ・マリガンはそんなことを心配させるほど、はまり役である。