yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

この世でいちばん落ち着く場所

先日読んだ野口悠紀雄さんの『「超」勉強法』の中のコラム欄に、「こころがいちばん落ち着く場所は図書館、それも書庫だ」とあった。私も同感である。

近所の公共図書館は、字が読めるようになってからはもっとも居心地のよい場所で、学校から帰るとすっとんでいって、5時か6時だったかの閉館時間までいた。中学・高校は大学まである私学の一貫教育校で、図書室(図書館は大学にあった)も充実していたので、入り浸っていた。そのせいでいつも「図書委員」をさせられていた。大学ででも、かなりの時間を図書館で過ごした。

とはいえ、現在の勤務先の図書館へはあまり行かない。いつも学生やら職員やらの人の目があって、「匿名」ではいられないので落ち着かないからだと思う。

私がいたペンシルバニア大学では事情がまったく違った。「住み着いているの?」といわれるくらい、ほぼ一日中入り浸っていた。いちばん落ち着くところだったから。朝は8時半から夜中の2時まで開いていた。試験期間中は一日中開いていた。

だから、7,8月の夏休みの真っ最中は閉館時間が早くなる(午後6時、7時)ので困った。その他、国民的休暇であるサンクスギヴィングからクリスマスにかけても時間短縮があり困った。私のように「帰るところ」がアメリカにない場合は図書館がそれにあたっているのに、それが閉じたり時間短縮になったりするのだから。

野口さんもスタンフォード大学の図書館のことを「この世界でいちばん落ち着く場所」と表現されているのだ。アメリカの大学の図書館と日本の大学の図書館とは決定的に違う。もちろんアメリカの方がはるかに居心地がよい。オープンで、蔵書数が桁違いである。図書館で本や論文の検索をすると、世界のそれらに行き当たるようシステムが組まれている。しかも重要な文献のほとんど(日本の文献、日本語の文献も含む)がそろう。その大学にない場合は提携している大学(ペンの場合は近場のプリンストン、コロンビア、ブラウン、ハーバード、イェール等)からとりよせてもらえる。また州の公共図書館からもとりよせられる。ペンもそうだったけど、そういう大学は5から6にもわたる専門別に分かれた図書館を擁しているので、蔵書が膨大なのだ。そして蔵書数はそのまま大学のレベルを示す指数になっている。

大学院生以上はキャレルといって、自分の机をキープできるので、辞書とか、よく使う本はそこに置いておける。とはいっても私は余り使わなかったけど。その日の気分でコンピュータルームにいるか、気に入った机のある場所に座っていた。

アメリカの大学の先生はその研究室に図書を所蔵していない。図書館が充実しているので、個人で蔵書を持つ意味が薄いから。今でもそれが羨ましいし妬ましい。論文を書くのに多くの本にあたるけれど、それが学内で済み、そしてそのほとんどがすぐにそろうなんてこと、日本ではあと何十年たっても無理だろう。