yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

服部幸雄著『さかさまの幽霊』平凡社

古書で注文していた本が届いた。今もっている服部本の中で、これが一番出版年(1989年)が古い。

この本も予想通り、とてもおもしろい。副題が「<視>の江戸文化論」となっている通り、さまざまなパースペクティブから江戸文化、特に戯作に登場する「演劇」を初めとするパフォーマンスを紹介している。アメリカの大学院に入る前に、あるいはせめて在籍した間にこの本に出会っていたら、授業で書いた戯作についてのペーパーが、もう少し内容のあるものになったのにと、残念である。

「四条河原の芸能と見せ物」と銘打った第3章はことさら興味深い。四条河原町の鴨川沿いには南座があり、まさに川床と接していて、その立地自体が「お国歌舞伎」をおもわせるものである。江戸初期からこの地域が芸能者がその芸を披露する場であったという歴史を、あらためて確認することになった。この一帯は京都でもっとも栄えている繁華街で、今じゃちょっとお澄まししているけれど、かってはロンドンのテムズ河南岸のサウス・バンク(South Bank)のようだったのだと想像するとちょっと楽しくなる。ロンドンのサウス・バンクも今では立派な劇場がたち並ぶ地域だけど、シェイクスピアの時代には「いかがわしい」地域だった訳で、この点でも四条河原と共通点があるのだ。

この四条河原では芸能者が小屋を並べ、大道芸、見せ物などが盛んに開かれていた。その様子を伝えるのが仮名草子の『露殿物語』であるという。時は寛永期(1624ー1644)江戸からやってきた主人公の朝顔露之介が、京の都を観光する様子が「写生的」に描かれている。仮名草子は客観的な描写という特徴があるが、それを裏付けるのが「露殿物語絵巻」である。これは近場の池田市の逸翁美術館蔵なので、機会があったらみてみたい。

彼がそこで見物したのは遊女が舞う能、遊女能だった。能も当時は「庶民的な演出」を失っていなかったので、人気があったのだ。

露之介が次に見物したのが遊女歌舞伎と操り人形芝居だった。大掛かりな小屋が建てられ、その華やかさと複雑さにおいて群を抜いていたという。「四条河原遊楽図」(ボストン美術館蔵)にその様子が生き生きと描かれている。これも興味深いのでこの夏ボストンに行って確かめたい。元禄期に発展した歌舞伎と人形芝居が今日の歌舞伎、人形浄瑠璃につながっているわけで、それらの原型ともいうべきものが、これらの絵巻や草子に描かれているのである。

『露殿物語』の露之介が次に興味を惹かれたのが見せ物、大道芸だった。見せ物は主として動物、孔雀、犬、猿、狼、そしてなんと水牛にまで多岐にわたっていた。また動物に芸を仕込みみせるという大道芸も盛んだったようである。

こうみてくると、露之介が上洛した17世紀初頭ごろ、すでに現在のパフオーミングアーツの原型のほとんどができあがっていたということになる。これらの多種多様な演芸が四条河原に固まっていたというのが驚きであるけれど、四条河原の南座近辺で往時の面影を偲ぶのも一興かもしれない。