yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

映画 『ピクニック・アット・ハンギングロック』(Picnic at Hanging Rock)

この映画をみたのはずいぶん前で、それもDVDだった。そのときの衝撃は忘れられない。

昨日つれあいのところからDVD2本と演劇関係の本を数冊もって帰ってきた。この映画はYoutubeでも断片を継ぎ合わせればみれるようだけど、やっぱりきちんと観た方がいい。

監督はPeter Weir、1975年の作品である。オーストラリア映画が国際的評価を受けた最初の作品のひとつになった。小説の映画化だが、その小説も実際に起きた事件をもとにしている。

その事件とは、1900年のヴァレンタインデイ(2月14日)に寄宿学校からハンギングロックにピクニックにきていた3人の女学生と女性教師が忽然と消えたというものである。

舞台はオーストラリアの女子寄宿学校。それもwilderness「荒野」のただ中に建てられたビクトリア朝風の建物であり、そのコントラストが画面全体を不安定にしている。その建物にはその不安定さに相応しい住人がいる。とりすました体裁屋の校長、Mrs. Appleyard。ここが彼女たちの終の住処になるような女性教師たちといった面々である。唯一「正常」さを保っているのは青春まっただ中の女学生たちである。とはいえ、やはり彼女たちも彼女たちを取り巻き、深くその場所に浸透している異常な気味の悪さと無縁ではない。寄宿学校の中の調度等はイギリスのビクトリア朝の雰囲気そのもの、衣装も英国そのままで、話す英語も英国を模している。

カメラはこれでもかという風に女学生の中でボッティチェリの天使をおもわせる美しい少女、Miranda (Anne-Louise Lambert) にフォーカスする。この少女こそが狂言まわしの役を担っているから。彼女はその美しさで取り巻きがいる。もちろんこういう寄宿女学校に送られてくるのは裕福な家庭の娘だが、ただ一人例外がいる。慈善で送られている貧しい家庭の娘Saraである。彼女だけが詩のクラスで暗唱できなかったので、罰としてピクニックには参加できなかった。そのSaraに、Mirandaは意味深な予告をする。彼女がここにいるのは長くないというのだ。それが後で現実になる。

昼食のあと昼寝をし、それからMiranda とその取り巻きの3人の少女たちはハンギングロックの中へと分け入って行くが、Edithだけが遅れをとってしまう。Mirandaと2人の少女は見えなくなり、怖くなったEdithは石山を駆け下りる。一行は少女を探すがみつからない。

一行が寄宿学校に帰ってきたのは予定をはるかに過ぎた午後10時すぎだった。ピクニックに同伴した数学教師のMiss Greta McCrawも少女たちと同じく姿を消していた。Edith は彼女がスカートを脱ぎ捨てて山を上って行くのをみたと証言する。

村は大騒ぎになり、捜索隊が編成される。山を登って行く少女たちを自身も山にいてみた若いイギリス人、MichaelとAlbertもそれに加わる。実はMichaelは垣間みたMirandaに強く惹かれていた。夜になり、Albertを帰したMichael は眠りから目覚めたあと、岩山を上って行く。ちぎった紙を後に残しながら。

翌朝、Albertは紙の切れ端を辿って行き、気を失っているMichael を見つける。彼が手にしっかりと握りしめていたのはドレスのレースの切れ端だった。Albert がふたたびMichael を見つけた場所に戻ってみると3人の少女の一人、Irmaがそこに倒れていた。しかし連れ戻されたIrmaは何が起きたのか全く覚えていないし、思い出せないという。召使いたちは彼女のコルセットがなくなていたと証言する。

その後、Michael 、Albertの二人は悪夢を見る。とてつもない悪(evil)が岩山で起きているという夢だった。

寄宿学校は大混乱。娘を連れて帰る親も出始める。教師の1人もやめて行く。校長は益々ヒステリックになり、Saraを以前にも増していびるようになる。ある日、Saraの死体が庭で見つかる。2階から飛び降りたのだった。

庭師が校長にそれを告げに行くと、彼女はすでに旅支度をして学校を去るところだった。

Albert は不思議な夢をみたとMichaelにいう。孤児になった妹が夢に出てきたというのだ。その妹こそ、Saraだった。

警察がSaraの死について尋問しようと校長を探したが、彼女の姿は消えていた。数日後、校長の死体がハンギングロックの麓で見つかる。飛び降り自殺をしたようだった。

謎が謎をよんで、そのどれもが解決されないまま不完全燃焼状態で映画は終わる。

寄宿学校という閉鎖空間、そこは人間のもつ悪、暗闇をより増幅させる場となりがちである。ただ、それはなかなか可視化されない。しかもそれが女学生(女子学生)の集団だと、少女特有の有徴性を帯びる。日本文化における「少女」について調べたことがあったが、そのとき、日本近代の少女という概念は西欧文化にも通低するものがあることに気づいた。それを気づかせてくれたのが映画だった。この映画もそうだし、新しいところではアメリカ映画、『モナリザ・スマイル』、時代が遡って『噂の二人』(The Children's Hour)、古いところだとドイツ映画、『制服の処女』等である。

この映画も「少女」のもつ特殊性が鍵となっている。子供でありながら大人の女の部分を併せ持っているというアンバランス。アンバランスの不安定さはオーストラリアという当時の「荒野」に建てられ、女子教育という「時代の先端」を担う女学校が表象するものでもある。その装置は、そこに住まう少女たち固有の不安定さと連動している。少女とは子供と大人の間にあって、純真と成熟を、清と濁を弱さと強靭さを併せ持つ存在だから。また天使であると同時に堕天使でもありうるから。

そしてなによりも少女は聖と俗の間を仲介する存在でもある。2人の少女たちの失踪は俗世界の悪のみそぎをするために岩山(キリスト教の神ではなく汎神論的太古の神)に捧げられた生け贄だったのか。それでもみそぎは完遂せず、悪は悪をよんで、もう一人の教師、そしてもう一人の少女を生け贄に必要としたのか。最後には寄宿学校そのもの(オーストラリア社会、あるいは私たちが今住む社会でもある)を崩壊させずにはおかなかったのか。

この事件が引き起こした振動、そして共振は、人が抱える闇がいかに深いか(fathomless)を表しているのだろう。