yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

学会三日目 最終日

今日は遅刻しないで、9時から始まる午前のセッションすべてに出ることができた。午後は2時からのはスキップして、4時から6時まで、つまり最終まで残って堪能した。

目から鱗だった発表は、、"Dying on TV: Traumatic encounter, on Screen and For Real"というタイトルのプレゼンテーションだった。ニュージーランドのオークランド大の映画・メディア学科の教授の発表で、映画、テレビ等のメディアが「死」をどう扱うか、その場合倫理上判断はいかになされるべきか、観客の見たいという欲望をどう受け止めるのかといった、きわめて難しい問題に現場でも取り組んできた人だった。とくに英米の「リアリティTV(Reality TV)」という視聴率の高い番組の中で頻繁に扱われる「死」が、なにがしかの倫理的問題に抵触しているのではないかという危惧を提起するものでもあった。

例えば死期の迫った人が、ドキュメンタリー形式で自分の死までの様子を映像に撮るということをどう評価できるのかという問題も扱っていた。英国のリアリティTVのスターだったジェイド・グッディが、自分の子供たちに資産を残すためにまさにリアリティTVそのものを利用した話は有名だ。その他にも現在進行形で「死」を撮るといった番組は多くある。リアリティTV的な死の扱いは別に英国に限ったことではなく、アメリカでも、そして日本でも日常的にみられる。

日本ではその手のものはほとんど見たことのない私(例外は改築をとった「ビフォー・アンド・アフター」で、これはときどきみていた)でも、アメリカにいたときは2年近く(タイトルは忘れたけど)朝10時から1時間も放映された「精神的に問題を抱えた数人の女性が共同生活をしつつ、専門家のカウンセリングを受けながら立ち直ってゆく」という番組だった。トラブル、それも精神的な危機、もちろんそれには経済的な問題も絡んでいるのだけれど、が何かそのころの私自身の心境とシンクロしていたからだと思う。

そしてなによりも、その手の番組は「覗き見」という人間の「さが」ともいうべき欲望を満たすからだろう。この「覗き見」(窃視)は英語では "voyeurism" というのだけれど、私が映画論を書くときにはいつもテーマの一つにしている。セレブを追い回すマスコミも、それをよろこぶ大衆も、窃視的な欲望の発露をよく表している。

しかしその対象が「死」と関係しているとどうだろうか。欲望には何がしかの逡巡、罪悪感が伴うのは間違いない。それは倫理が絡んでくるからであろう。

日本の地震、津波のニュースをみるときですらまるでドキュメンタリーのようにみてしまう、つまり劇場化するということはいやでも免れないわけで、その場合その中で大量にばら撒かれ、それ自体が増殖する「死」をどう処理するのかという難しい問題に向き合わざるをえない。

この発表者は現在ドキュメンタリーを制作中とかで、その中でで制作者と見る側の倫理的な問題がどう折り合いをつけられたのかを、いつになるかは分からないけど彼女の次の発表で聞きたいと思った。