yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

学会二日目

今日は9時から学会2日目のセッションが始まった。昨夜は疲れ果てて起きたのが7時で、不覚にも10分ばかり遅刻してしまった。それぞれの時間帯に2つのセッションが入っていて、私は「演劇とトラウマ」の方に行きたかったのに、もう一つの「戦争によるトラウマ」の方に参加しすることになった。そのセッションに参加していた全体の責任者のナンシーに尋ねたいことがあったためである。

このセッションは理論に拠った発表が2つあって、それもかなりヘビーなもので興味深かった。ここまでのものは国際学会でも希少である。日本ではほとんどない。例外は去年11月に参加した「表象文化論学会」くらいだろうか。

午前のセッション2つの中で特によかった発表は、ポーランドのオポール大学の英文科の教授の発表で詩人・劇作家のサイモン・アーミテージの詩を扱ったものだった。戦争の記憶がそれが自分自身のものではなく、たとえば両親、祖父母といった人たちのものであっても、なにかの形として残るものであることが、彼の詩に読み取れるというもので、とても興味深かった。

ナンシーに尋ねたかったのは私が司会するはずになっていたその次の11時からのセッションの発表者に欠席者がいないかどうだったのだけど、発表の司会をしたいと申し出ている人がいるので、その人に譲ってくれと逆に頼まれてしまった。なんでもトルコでの弾圧をテーマに発表するそのセッションの発表者の知り合いのトルコ人の女性とかのことで、せっかくのプラクティスの機会を逸するのは残念な気もしたけれど、正直ちょっと気が楽にもなった。

トルコ弾圧の発表はかなりショッキングなものだった。1980年代という、そして1990年代というまだ生々しい記憶が残るときに当局がリベラルな知識人にしていた拷問の具体的な例も入っていた。ほとんど明るみに出ない話なので、それにトルコに帰っていった私のペン大時代の友人からも聞いたことがなかった話なので、衝撃だった。

午後からは演劇とジェンダー問題を扱ったセッション二つに参加した。「ジェンダーとトラウマ」ではまず司会者のオーガナイズの仕方に感心した。開場の机を脇によけて、椅子を車座に並べての発表と討論という形態にしたのだ。総勢16人ほどだったからできたのだけど、これですべての人が発言することになった。二人の発表者との、そして参加者全体のより緊密な関係作り上げるのに即効性のある有効な手段だった。おかしかったのは、男性は二人のみ、しかもかなり年配の人たちで、いっぱいいた他の若い連中はもう一つのセッションに行ったのが一目瞭然だった。やっぱりどこでも同じなんだ(?)なんてあらためて感じさせられた。

ソマリア出身で現在南アフリカでカウンセラーをしている若い女性の発表も衝撃的だった。アフリカで依然として行われている少女の性器切除を扱っていた。女性ならばそれがいかに女性の尊厳を奪う暴力的行為かが分かるはずである。一座もシーンとなっていた。この怖ろしい蛮行を扱った映画の一部を観たことがある。ソマリア出身のモデル、ワリス・ディリーさんの自伝を映画化したもので、非常に胸を打つ、そして苦しくなる映画だった。これについてはサイト もある。

もう一人の発表者はアメリカ人のカウンセラーで、DVの施療にあったってきた30代の女性だった。これも裏話的なエピソードを含めて、興味深いものだった。「トラウマ」をテーマにした学会だったので、カウンセラーの発表が多かったのだけれど、こういう機会でもないかぎり本音の話を聴くことがないので、終わったあとはみんなが友人なんていう感じになって、互いにメール交換をした。