yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

推理小説?『リヴァイアサン号殺人事件』

かなりペダンティックな作品である。さすが文芸評論家が書いた作品だ。推理小説というより、やっぱりロシアの正統小説、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ショローホフ、最近ではソルジェニーツィンとの共通性が思い浮かぶ。これらの作家は作風、手法がちがっていても、そのテーマのところで、そしてなによりもその独特の暗さ、重さで通底している。そしてその「土着性」ででも。音楽家にもそれがいえるので、ロシアに生まれるということがどういうことなのか、何となく分かる気がする。「西洋」であって、どこか東洋的なところがあるのも、その独特の土着性から来ているような気がする。

最近ユダヤ系ロシア人を曾祖父母に持ちながら、現在は英国に住む陶芸家・研究者、エドモンド・ヴァールさんの著作を読んだばかりなので、同じく日本人、日本文化が深く絡んでいる作品を書きながら、ここまでの違いがあるのは、やはりロシアに生まれ育つということが作家魂に抜き差しならない影響を及ぼすのだということを思い知らされる。ロシア土着のものよりも「フランス文化」にどっぷりと浸かって生活していた貴族のトルストイですらそうだったのだから。

19世紀末パリで起こった大富豪の館での一家惨殺事件。現場検証をしたゴーシュ警部(P.D.ジェイムスの格好いいダルグリッシュとは雲泥の差の冴えない男で、なんと途中で殺されてしまう)が被害者の握った手から発見した「金のクジラのバッジ」の手がかりを求めてイギリスのサザンプトンからインドへと出航するリヴァイアサン号に乗り込み、捜査を始める。

どんでん返しにつぐどんでん返しというのはアガサ・クリスティを思わせる。そういえば、船の中という限られた空間での殺人というところにも、『オリエント急行殺人事件』との相似性がある。

そして何よりも、文芸評論家の面目躍如なのはポストモダンの手法である。それもロシアの文芸理論家バフチンのポリフォニーの手法がそっくりそのまま当てはまる。以下はその例の一つである。

要所要所で挿入される新聞記事
警部、容疑者を含む乗客のそれぞれの視点からの独白
乗客の一人、ミルフォード=ストークスの妻への手紙

それらのインディビジュアルな声と意識が併存しながら、かつ響き合いながらそれぞれに独自性を主張しつつ、一つのまとまりの中に織り込まれて行くという手法である。

アクーニンの作品ではおなじみのファンドーリンという外交官、日本赴任の途上で船に乗り合わせた彼が独自の推理を展開して、事件を解決する。

娯楽と文学の融合の成功例の作品を久しぶりに読んだ。読み応えのある作品で、日本でも読者を多く獲得できればと思う。ただ、訳で気になるところがいくつかあった。私自身の翻訳経験からも日本語として美しい文章にするのがいかに難しいのかがよくわかる。

蛇足だけど、登場人物の一人、ミルフォード=ストークスっていうのはひょっとして『三島由紀夫 死と真実―The Life nad Death of Yukio Mishima』を書いたヘンリー スコット=ストークス(Henry Scott‐Stokes)のもじりでしょうか。