yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

新藤兼人著『ある映画監督』1月25日

もちろんこの映画監督とは溝口健二のことである。

新藤はシナリオライターとしてのスタートを溝口につくことによって始めたが、溝口にさんざんけなされて、ライターを降りている。しかしその後、溝口組に参加し、映画を一緒に撮っている。その彼の溝口へのオマージュがこの著書である。愛憎ない交ぜでというより、やはり深い尊敬の念に裏打ちされた追慕の記録になっている。その後、溝口のドキュメンタリーを撮っているほどである。

新藤のその後の映画監督兼シナリオライターとしての活躍は衆目の知るところである。御歳九十を越えていまだに現役である。

いったい何が起こったのか、何が「事実」だったのかを執拗にインタビュー、現地への訪問といったリアルな事象の積み重ねて解き明かそうとするのが新藤の手法だけれど、それをそのまま溝口の生涯に適用した作品である。ドキュメンターと全く同じアプローチを採っている。

そのドキュメンタリーを、アメリカから取り寄せた溝口の『雨月物語』の付録として観た。これは留学生のために取り寄せたもの(彼らには英語の字幕が必須だから)で、留学生と一緒に観た。学生はかなり退屈していたけれど、私にはとても興味深かった。というのも、この二人、資質がまったくといっていいほど違うから。

虐げられた人へのまなざしという点では二人に共通点はあるけれど、その処理の仕方が違っている。新藤にはいつもイデオロギーのにおいがして、私はあまり好きではない。世の中を映画によって変革しようというような「社会的正義感」がぷんぷんニオッてくる。他方溝口といえば、虐げられた人が虐げられることである崇高になる瞬間を捉えようとする。彼には社会変革なんてどうでもいいのである。極論すれば。この点、三島由起夫と似ている。美のためだったら「人道的処理」なんて自分の作品にほどこそうなんてしない人たちなのだ。

それほどの資質、アプローチの違いを超えて、新藤が溝口に惹かれたのは何かを知りたかったので、これが手に入ったのは喜ばしい。この本がなかなか手に入らず、私はこの本を読まないで溝口健二の『残菊物語』論を書いたばかりである。とはいうものの、あまり私の書いたものの内容がこれを読むことで変わりはしなかったけど。

溝口の映画の壮絶さはそのまま彼の生の壮絶さでもあった。映画という「神」への殉死だったのだろう。