yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

気鋭の溝口論文に出会ってしまった 1月10日

さきほど論文のリバイス終了で、査読していただく同僚の哲学の先生へメールを送ろうとして、彼からのメールに気付きました。あけてみると、数日前から坐骨神経痛でずっと痛みと闘っておられる由、到底査読は頼めそうにもありません。明日別の人に当るしかありません。お気の毒です。ここ数ヶ月の間にヨーロッパ出張講義が2回あったので、身体にこたえられたのでしょう。

溝口の『残菊物語』で論文は書いたのですが、私のものはいわゆる実証主義的なアプローチではないので、批評理論、とくに精神分析学に抵抗のない方に査読してもらわなくてはならないのですが、そういう方は同僚には彼以外見当たらず、困ったことになりそうです。アメリカだったら理論のない文学関係の論文は受け付けてもらえないのですが、日本では逆にそういうものが少ないのです。

それから鑑みて、先日の「表象文化論学会」は貴重な存在なんですね。なんといってもさすが東大です。

そしてこの「表象文化論学会」絡みで、素晴らしい論文に出会いました。著者は木下千花さんといって、現在南オンタリオ大学の助教授をしている方で、彼女が東大院のこのコースの出身なのです。論文は溝口健二没後50年を記念して開かれた国際シンポジウムを本にしたもの(2006)に収録されていました。編者は蓮實重彦、山根貞男で、蓮實は東大の総合文化研究科に「表象文化論」コースを立ち上げたその人なのです。

この方、東大からシカゴ大の博士課程に行かれて、2007年にPh.D. をとられています。その後カナダの大学に就職されたのでしょう。優秀なので当然ですね。この本に収録されていた溝口健二論、「世界の中のミゾグチ、溝口の中の世界」はそのタイトルからも明らかなように、溝口の世界での受容と、溝口の映画世界にみられる日本的なもの(とされる)特殊性が「普遍的」になりえたのかどうかを、溝口の「日本趣味」そしてモダニズムを軸として検証しようとした意欲作なのです。

この背景にアメリカでの大学院教育が浮かび上がってきます。彼女のアプローチは日本の大学では可能ではない方法だからです。久しぶりにワクワクしました。そしてアメリカでの授業での論戦が強烈に甦ってきました。