yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

サド・マゾヒズムと演劇

12月24日までに論文を一本仕上げなければならない。
一年以上も前から暖めていたのが三島由紀夫の芝居、『地獄変』だった。これは芥川龍之介の同名の短編を素にした劇である。ただ、いかにも三島好みのものに換骨奪胎されている。

権勢を誇る堀河大臣は絵師良秀に地獄変図の屏風を描くように命じているが、なかなか出来上がらないので腹を立てている。さらに、彼は自分の妃に仕えている良秀の娘露艸に横恋慕、自分のものにしようとしているが、露艸は靡かない。こいうわけで、大臣は良秀親娘に苛立ちを募らせている。良秀は大臣の苛立ちを見透かすかのように、「馬車に美女を乗せて火をかけてくれればそれをみて地獄絵を描く」という。大臣は露艸を馬車に乗せて火を放つ。良秀は悶え苦しむ娘の断末魔を写生、注文の地獄変図を完成させた後、自殺する。その絵はまたとない傑作だった。

三島がそもそも芥川の原作に興味を持ったのはこの堀河大臣に感情移入しやすかったからだという。堀河大臣は日本版マルキ・ド・サドである。そして三島はサドに非常な思いいれがあったのは彼が『サド侯爵夫人』を書いたところにも窺える。三島はこの劇を義太夫狂言で演じることを望んでいた。実際は歌舞伎になったのだけれど。

私がペンシルバニア大学に提出したPh.D.論文は三島の演劇論だったが、扱った劇作品は『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』、それに『椿説弓張月』だったので、『地獄変』は論じていない。ただ、そのときからこの作品はずっと気がかりだった。どういっていいのか、なにか三島自身の中にある切迫感が他の作品よりも強い気がした。

劇作品では『近代能楽集』の諸作品と同時期のものだが、それらとはかなり毛色が違っている。劇中人物への同化が強くて、彼の耽美性がよりダイレクトに描出しているというべきか。だから批評対象としてはかなり扱いにくいのだ。三島と作品の距離がそのまま分析する私自身との距離になってしまう怖れがあるからである。三島は劇作品を書くときは小説のときよりももっと奔放に自身を出す傾向がある。小説では作中人物とは客観的距離をとっているのに、劇作品の場合はその距離がほとんどなくなるときがある。ものすごいエネルギーが作中人物に注がれることが多いように思う。その結果、傑作も劇作品に多い。私は三島は小説家というより「劇人」(これは演劇評論家・演出家の堂本正樹の言葉でもある)だと思う。

劇人三島が恍惚感に浸りながら書いた作品が『地獄変』だったような気がする。この作品を論じるなら、こういうもろもろの問題も抱えながら、自分と三島の距離を量りながらやって行かねばならないだろう。

大衆演劇の中にもこういうサド・マゾヒズムを描出する作品(傑作)があることが今日分かった。先ほど観てきた劇団花吹雪の芝居、『男の人生』(なぜこんな変なタイトルなのか腑に落ちないけど)である。すざまじくサド・マゾ的で、それでも(それゆえに?)観客を感動させていた。春之丞さんの演技、もう何もことばがないほどのはまり役、そして熱演だった。助演の京之介さん、寿美さんの演技も現代劇の俳優たちが及ばない域だった。この劇団のすごさ、こういうところにもっともよく顕われている。