yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

デイビッド・ヒュームの経験論

毎水曜日の読書会、昨日はヒュームの経験論 (empiricism) だった。相手方の哲学の先生の専門なので、いっぱい資料を持ってきてくださった。

私は彼にレクチャーのDVDを渡しているので、読書会当日にレクチャーは初めてみるのである。Teaching Companyのサイトで音声部分はMP3でダウンロードして、あらかじめ2回は聴いておいた。またアウトラインは文書化されているので、それにもあらかじめ目を通しておいた。彼が英語で専門的な討論をしたいということだったので、西欧の哲学者を毎回変えてやっている。哲学をテーマにしたのは私が興味があるからであり、私自身の研究にも役立つからである。ギブアンドテイクの関係が成立しているわけである。

DVDの講師は非常に明晰な説明をしてくれているので、分かりやすいはずなのだけれど、今回はかなりついてゆくのに苦労した。というのも私が今までに勉強してきた哲学者、例えばカント、そしてその流れをくむポストモダンの思想家とはまったく違う議論をヒュームが展開しているからである。私がなじんできたのはまず仮説を立ててそれを証明してゆくという「演繹法」だったので、事実を収集、それをデータ化、そこから結論を導き出すという帰納法的な思考になれていないのだ。

先週はフランシス・ベーコンで、この人も帰納法の人である。事実を観察、実験を重ねるという「科学的」方法を導入することで、当時ヨーロッパのアカデミアで主流だったスコラ哲学の伝統に風穴を開けたという。ヒュームもその伝統につながる思想家ということらしい。両者ともに英国人(ヒュームはスコットランド出身)で、イギリスの経験論の基礎を築いたということになっている。

演繹的手法はドイツ観念論のものだというのは知ってはいたが、ここで初めて経験論との違いが少しは分かった。ただ分かるのと納得するのとは別問題で、演繹的思考回路を帰納法的なものにスイッチしなくてはならず、一苦労である。相手の先生はご自身のご専門なので、私が質問すると一生懸命英語で説明しようとしてくださる。それでも腑に落ちない部分が残るので、かなりしんどくはある。

来週は帰納法の強固な礎を作ったアイザック・ニュートンを相手の先生の提案でやることになっている。いただいた資料を含めて、百科事典、Wikiのサイトにインターネット検索をかけて下調べをしておかなければならないだろ
う。