yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

表象文化論学会で印象に残った発表

帰阪の新幹線の車中である。

やっぱりというべきか、「表象文化論学会」は刺激的な内容だった。加入手続きはまだだが、申込書に記入して明日にでも送るつもりである。予想通り、出席者は全体的に若かった。20代から40代にかけての研究者が占めていた。発表者もほとんどが若手だった。

セクションが3つに分かれていたので、私は「欲動・イメージ・動物化」という部門を選んだ。どうもここが他セクションより聴衆が多かったようである。3つの発表の共通テーマは「ドゥルーズ」で、主として彼の映画論を違った角度で切ったものだった。

今までの日本の他の学会でよくある「だらだら型」の発表(最後に「いったい何がいいたいの?」と思わせる)は少なくて、最初から仮説、結論を提示する演繹型の発表が多く、聴き手には「親切」なものだった。また、驚いたことにパワーポイントのものが最後のシンポジウム以外はなくて、アナログ的なハンドアウトで全体の流れを、そして引用等を示していた。だからハンドアウトの量がいつものものより多かった。それも「まとめ」というより、発想の流れを文字化したような、どちらかというとアウトラインを中心にしていた。

一番面白かったのは、「初期ドゥルーズのヒューム/ベルグソン解釈における差異概念と表象批判」という題の発表だった。ベルグソンといえば「継起する時間」というその時間論で有名だが、それをドゥルーズはとりこみ連合主義的認識論に到達したというのが一般的評価だそうである。この発表者はそこに疑問を呈する。

世界を全体像なしの断片とみなすヒュームの影響がドゥルーズにはあきらかにみてとれるというのだ。「世界の『潜在的』全体性を想定するベルグソンと断片群とみなすヒュームの間にドゥルーズを置く」とこの発表者は主張する。とても説得力があって、新しい独自の観点を挿入するというのは、オリジナリティを求める欧米の論文とも合致している。

こういう明晰な発表は、日本の学会では今まで出たことのある日本の学会発表の中では珍しいものだった。

シンポジウムは最初のものを聴いたあとで退出したが、その発表も面白かった。というより、私が今まで書いてきた映画論、映像論と多くの共通点があった。映画『アバター』を軸に、以前に制作された3G映画、ヒッチコックの『裏窓』、さらにはデジタルゲームをとりあげ、「視ること」と観客との関係を探るというものだった。

スラヴォイ・ジジェクは、シンプトム(症候)がこの関係の結果であり、その元にフェティシズムをみる。彼が自身の説を証明するのに使った『裏窓』が言及されたので、残ってその点も発表者に質問したかったが、残念である。